日記を読む・2
午前の授業が終わった昼休み。
ルーンは校庭広場のベンチに腰掛け、日記帳を膝の上に置いていた。
校庭には生徒たちの楽しげな声が響いているが、ルーンの意識はその喧騒から離れている。
読み途絶えていた場所から指先でページをめくり、続きを読む。
十月。十一月。十二月。
日記の内容は、今朝読んだものとそれまで大きく変わってはいなかった。
家族との日常。息子と娘の成長。
妻との何気ない会話。
どこにでもあるような、穏やかな家族の記録。しかし、それと同時に黒い宝石についての記述も徐々に増えていた。
ページをめくるたび、その言葉が目に入る。
「…………」
ルーンは眉を寄せながら読み進めた。
「……一月五日」
一月五日のページで指を止めて小さく呟き、文章を読み始める。
「日記を書き始めて半年が経った。息子と娘はあれから毎日のように喧嘩をし、宝石を取り合っている。今も騒ぎ声と娘の泣き声が聞こえる。妻と私が止めに入れば喧嘩はおさまるが、私たちが目を離すとまた喧嘩が始まる。あんなに仲の良かった子供たちが、何故こうなってしまったのか」
ルーンは黙ってページをめくる。
一月十二日。
「娘が大怪我を負った。息子の仕業だった。キッチンから持ってきたのだろう。手に包丁を握りしめ、娘の腕を傷つけたのだ。私は叱った。だが息子は聞く耳を持たず、包丁を捨てて家を出ていってしまった。娘は泣きじゃくっていた。私はすぐに娘を病院へ連れて行った」
ルーンの眉間に皺が寄る。
以前まで仲の良かった兄妹。
それが今では、宝石を取り合い、互いに傷つけ合っている。
何故そうなってしまったのか。
日記を書いた父親自身にも理解できていないようだった。
「一月十三日。娘と息子を近づけさせないようにしようと妻と相談して決めた」
次のページ。
「一月十五日。喉が渇いたので水を飲もうとリビングへ行くと、息子がいた。夜中だというのに何をしているのだろうと思いながら見ていると、息子はあの黒い宝石を見て笑っていた。その笑顔は不気味で、私は恐怖を覚えた」
さらに次。
「…………」
ルーンの指先が止まる。
恐怖。父親が息子に対して抱く感情としては、あまりにも重い言葉だった。
ルーンはしばらくその一文を見つめたあと、再びページをめくる。
「一月二十日。娘が宝石を手にしていた。私はすぐに取り上げた。娘は泣きじゃくり、私を叩いた。“わたしのほうせきとらないで!”と泣き喚いた。心が痛かった」
わたしのほうせき。
ルーンの口から無意識に言葉が漏れる。
次のページへ進む。
ぺらぺらと読み進め、二月二十日。そこに書かれた文章を目にした瞬間、ルーンの表情が変わった。
「二月二十日。私は思い違いをしていた。宝石によっておかしくなってしまったのは息子だけかと思っていた。この部屋には私一人だ。先ほどまで娘が近くにいたが追い出した。娘が私の日記帳に落書きをした。そこには娘と男の絵が描いてあった。そして、その隣にはあの黒い宝石の絵」
文章の下には、実際に落書きが残されていた。
幼い子供が描いたような絵。
少女と、その隣に描かれた男。
そして黒く塗りつぶされた円形のもの。
「……………」
ルーンはじっとそれを見つめた。
「男の絵を見て、これは誰だと聞いてみた。その瞬間、娘は身も凍るほど冷たい瞳で私を見つめた。それはすぐに元に戻ったが、私はその瞳がひどく恐ろしかった」
静かな風が吹き、木々の葉が揺れる。
ルーンは、それに気づくこともなくページを読み進めた。
「二月二十一日。私は、あの黒い宝石を捨てることに決めた。あの宝石のせいで、息子と娘はおかしくなっている。私と妻ももう限界だ。このことは子供たちには内緒にしておかなくては。この日記帳も、子供たちに見つからない場所に隠しておこう」
そこで、日記は終わっていた。
「…………」
ルーンは最後の文章を何度も読み返す。
続きのページはない。
日付もない。
次の日の記録も、その先の記録も。
二月二十一日。
その日を最後に、日記は途切れていた。
「……ふぅ」
ルーンはゆっくりと息を吐く。
そして、二月二十日のページに残された落書きへ指を伸ばした。
指先で、そっと絵に触れる。
「……………」
不思議だった。
この落書きには、どこか見覚えがある。懐かしさすら感じる。
もちろん、こんな絵を見た記憶も描いた記憶もない。それなのに、胸の奥が妙に締め付けられる。
この日記に書かれた家族のことも同様だった。
知らない家族。知らない父親。知らない兄妹。それなのに、どうしても他人事のように思えない。
「…………」
どうして、こんな感情が湧くのだろう。どうして、これほど胸が苦しくなるのだろう。
ルーンには分からなかった。
「ルーン!」
「……?」
そこで声が聞こえる。
顔をあげると、フィルがこちらへ歩いてくるのが見えた。
「こんなところにいたのか」
近づいてきたフィルは隣に腰掛けると、ルーンの手元にある日記帳へ視線を向ける。
「……日記、読んでたのか?」
「ええ。……もう読み終わったわ」
ルーンは日記帳を静かに閉じた。
「この日記を書いた男性は、家族を非常に大切にしていたことがよく分かったわ」
「……いい父親だったんだろうな。最初の方なんて、家族の話ばかりだったし」
フィルは穏やかに笑う。
「ええ。息子と娘のことを本当に大切にしていたみたいね」
二人はしばらく、日記の内容について言葉を交わす。
穏やかな家族。仲の良かった兄妹。そして、黒い宝石の出現によって崩れていった関係。やがて話題は自然と、その宝石へ移っていく。
「黒い宝石って、一体何なんだろうな?」
「……さあ。分からないわ。日記の後半では、この宝石の話が何度も出てくる。宝石のせいで子供たちの喧嘩が絶えなくなったり、娘が怪我をしたり……」
ルーンは顎に手を当て、考え込む。
「……調べれば何か分かるかしら?」
「調べるって、どうやって?」
「宝石に詳しい人間に聞くとか?」
ルーンは答える。その言葉を聞いたフィルは、少し考えたあとゆっくりと首を振った。
「……ルーン。気になるのは分かるけど、やめておいた方がいい」
「…………」
「俺たちが今やるべきことは、消えたカフルエルの行方を追うことだってターナさんが言ってた。今はそれに集中すべきだ」
ルーンは黙ってフィルを見る。
「貴方は気にならないの?」
「……気にならないと言えば嘘になるけど、今の俺たちにはそれよりも優先すべきことがある」
「…………」
「勝手に読んで悪いけど、この日記は元の場所に戻すべきだ。図書室の…あの部屋に」
眉をひそめてフィルは言う。
「………」
ルーンは視線を落とす。
膝の上にある日記帳。黒い宝石。途切れた記録。気になる点はいくつもあった。
それに、あの黒いワンピースの少女のこと。もしかしたらって思うけれど、それでも、フィルの言うことも正しい。
「……そう、ね」
ルーンは小さく呟いた。
「今は……宝石よりも、カフルエルの行方を追うべき、よね」
自分に言い聞かせるような声。
「うん」
フィルは頷き、日記帳をそっと受け取った。
「じゃあ、これを元の場所に戻しに行こう。今の時間だと生徒も多いし、放課後にな。授業が終わったら迎えに行く」
その直後、午後の授業開始を告げる鐘が鳴り響く。
「行こう」
「……ええ」
二人は立ち上がった。
フィルが日記帳を持ち、ルーンがその隣を歩く。
校庭広場から校舎へ向かう二人の背中を、午後の陽光が静かに照らしていた。
いつもと変わらない、穏やかな午後。
しかし、ルーンの胸の奥から"あの言葉"が消えることはなかった。




