日記を読む
翌日。
ルーンが学び舎へ着くと、聞き慣れた明るい声が飛んできた。
「ルーンちゃん、おはよう!」
振り向くと、マキノがいつものように元気よく手を振っていた。
「………ええ」
ルーンは彼女へ顔を向け、軽く返事をする。
「…………?」
いつもと少し違う。そう感じたのだろう。マキノは首を傾げた。
「ルーンちゃん、どうしたの?なんか元気ないけど?」
「……そうかしら」
「うん。そうだよ。もしかして、具合悪い?」
眉尻を下げ、心配そうにルーンの顔を覗き込む。
ルーンは一瞬だけ視線を逸らした。昨夜の出来事が脳裏を過る。
暗い部屋。黒いワンピースの少女。そして――黒い宝石。
「そういうわけじゃないわ」
ルーンは小さく首を振った。
「……そう見えたのなら、ごめんなさい。何でもないわ」
「そう?」
「ええ」
ルーンは安心させるように口元を緩ませる。
「……なら、いいけど」
まだ少し心配そうではあったが、マキノもそれ以上は尋ねなかった。
学び舎は、以前の騒ぎが嘘だったかのように静かな日常を取り戻しつつあった。
カフルエルによる襲撃から、随分と時間が経っている。損壊していた校舎や校舎内の設備も修繕が順調に進み、今では完全に元の姿を取り戻していた。
怪我を負った生徒や教師たちも、少しずつ出勤や登校を再開している。
廊下を行き交う生徒たち。教師たちの声。教室から聞こえてくる笑い声。ようやく、いつもの学び舎の風景が戻ってきていた。
その中を歩きながら、ルーンは教室へ向かう。教室に入ると、自分の席へと向かった。
鞄を机の横へ置いて必要なものを取り出していく。筆記具、このあとの授業で使う教科書的とノート。そして最後に、一冊の本。
日記帳。今朝、フィルから渡されたもの。渡された時、フィルは何やら深刻そうな顔をしていた。
けれど、その理由はまだ分からない。
「……………」
ホームルームが始まるまで、あと十分あまり。それだけあれば、少しくらい読めるだろう。
そう考え、ルーンは日記帳を机の上へ置いた。
「……」
表紙を開く。
最初のページ。
そこには、日付と文章が書かれていた。
「? ルーンちゃん、何それ?」
隣から声。
いつの間にか、マキノがこちらを覗き込んでいた。
「日記帳よ」
ルーンはページを読み進めながら答える。
「日記帳?」
「ええ」
ぺらりとページをめくる。
日付は一日おき。日記なのだから、当然と言えば当然だった。
「私にも見せて!」
マキノはそう言うと、自分の椅子をルーンの席へ近づける。そのまま腰を下ろした。
肩と肩が触れそうなほど近い。
ルーンは隣に座ったマキノの顔を見る。
「……見ても、面白くないと思うわよ?」
「一緒に見ることが大事なの!友達として!」
「…………」
ルーンには、よく分からない理屈だった。
しかし、マキノは楽しそうに笑っている。
「……まぁ、見ても問題はないと思うけど。つまらなくても文句は言わないでね」
「分かってるって!」
ルーンは小さく息を吐いた。
視線を日記へ戻す。そして、日付の早い順から読み始めた。
「……五月二日」
文章を指でなぞりながら、声に出す。
「今日から日記を書こうかと思う。この日記帳は妻からの誕生日プレゼントだ。彼女から貰うものは何だって嬉しい」
マキノが楽しそうに耳を傾ける。
ルーンは次のページをめくった。
「五月三日。今日は――」
日記は続いた。
三日。四日。五日。
その翌日も。さらにその翌日も。
書かれているのは、ごく普通の日常だった。
家族と食事をした。仕事が忙しかった。妻と話をした。子供たちが庭で遊んでいた。
どこにでもありそうな、穏やかな日々。
そして、一ヶ月分の日記を読み終えたところで、マキノが口を開いた。
「この人、凄く家族のことが大好きなんだね」
口元を緩ませて笑う。
ルーンは小さく頷いた。
「……そうね」
日記の文章から伝わってくる。
この人物にとって、家族が何より大切だったのだろう。
「……六月五日」
ページをめくる。
ルーンが読み上げる。
「今日は妻が出掛けているため、代わりに息子が娘の面倒を見ていた。娘は息子のことが大好きらしく、いつもべったりしている。今日も嬉しそうに息子の背中にくっついていた。なんとも愛らしい光景で癒されてしまった」
「可愛いね」
マキノが笑う。
ルーンもわずかに口元を緩めた。
そして次のページ。
「六月六日。今日は息子と二人で集落の外へと出掛けた。息子に狩りを教えるためだった。……息子は腕が良い。少し教えただけで弓の扱い方を覚えてしまった。天才なのではないだろうか」
「親バカだね」
マキノがまた笑った。
それから二人は、交互に日記を読み進めた。
ページをめくる。また、めくる。
そこに書かれているのは、家族のことばかりだった。
特に中心となっているのは、二人の子供。息子と娘。息子が妹の面倒を見る話。娘が兄について回る話。
父親が二人の成長を喜ぶ話。母親と家族で食事をした話。
どれも穏やかだった。
どこにでもあるような、普通の日記。
「……………」
ルーンは何ページも読み進める。
先に書かれている日記も。
さらに先の日記も。
内容はほとんど同じだった。
家族の話。子供たちの話。穏やかな日常。
やがてルーンは、ページを飛ばすようにめくり始めた。日記帳の半分ほどまで来たところで手を止める。
「…………」
そこにも、似たような文章が並んでいた。
ルーンはそのまま読み飛ばそうと、ページの端を指で摘む。
しかし──
「………?」
目に入った一文に、指が止まった。
日付は九月二十五日。
ルーンはそこへ視線を落とす。
「…………」
そして、ゆっくりと文章を読み始めた。
「九月二十五日」
その声が、わずかに低くなる。
「今日、息子と娘が喧嘩をした。仕事をしているときに突然泣き声が聞こえてきて、慌てて駆けつけると、そこには傷付いた娘と、その娘を見つめる息子の姿があった」
マキノも黙って文章を追っている。
ルーンの指が、文字の上をゆっくりと滑った。
「息子は手に宝石を持っていた。黒くて丸い宝石だった」
「…………」
ルーンの指が止まる。
「どこで手に入れたかはわからない。聞こうとしたが答えてくれず、そのまま息子は家を出ていってしまった」
「急にどうしたの…?」
マキノの表情から笑みが消えていく。
ルーンは続きを読んだ。
「これを書いている現在、息子はまだ戻ってきてはいない。娘は病院へ連れて行った。切り傷程度で済んでよかった」
「…………」
二人の間に沈黙が落ちた。
「宝石……」
ルーンが、ぽつりと呟いた。
その言葉が妙に引っ掛かった。
ただの宝石。そう考えることもできるけれど、昨夜のことが頭をよぎる。
黒いワンピースの少女。
少女が繰り返していた言葉。
――ほうせき。
「…………」
ルーンはページをめくった。
そこから先の日記には、時折「宝石」という言葉が現れるようになっていた。
「…………」
ルーンは黙って読み進める。
宝石を見つけた。
宝石について息子が何かを話していた。
宝石を巡って家族の間に妙な空気が流れている。
少しずつ。ほんの少しずつ。
それまで穏やかだった日記の中に、異質な言葉が増えていく。
そして。
その言葉が出てくるようになってから、二ヶ月目の日記。
「ルーンちゃん……」
「…………」
ルーンはページを開いた。
そこに書かれている文章を読む。だが。
――キーン、コーン……。
その時、教室内に鐘の音が鳴り響いた。
「……!」
ルーンの肩が、ぴくりと震える。
日記から顔を上げた。
周囲では、生徒たちがそれぞれ席へ戻り始めている。
鐘の音が鳴り終わり、それとほぼ同時に教室の扉が開いた。
「おはようございます、みなさん。席についてください」
ケインが教室へ入ってくる。
「またあとでね」
「……ええ」
マキノはそう言って、ルーンから少し離れる。短く答え、生徒たちが全員自分の席についた。
教室が静まり返る。
その様子を見渡し、ケインは満足そうに微笑んだ。そして、そのまま話を始める。
ルーンも前を向くが、教師の話を聞きながらも意識の一部は、まだ日記帳に残っていた。
「…………」
ルーンはそっと視線を落とす。
開いたままの日記帳。
そこに書かれていた言葉。
「……」
黒い宝石。
その文字が頭から離れない。
偶然なのだろうか。
昨夜、黒いワンピースの少女が口にした言葉。そして、この日記に残されていた言葉。
どちらにも共通している。――黒い宝石。
「……さがして」
ルーンの唇が、ほとんど無意識に動いた。
「私の、黒い宝石……」
呟きは小さい。その声は教室のざわめきに紛れて、誰の耳にも届かなかった。
けれどルーン自身はその言葉を口にした瞬間、胸の奥に奇妙な違和感を覚える。まるで、ずっと昔から知っていた言葉を思い出したかのように。




