さがして
ルーンは夢を見ていた。
それは、幼少の頃の夢だった。
窓から柔らかな陽光が差し込む、温かな家。テーブルの上には母の手料理が並び、その向こうでは父が穏やかに笑っている。隣には兄の姿があった。
何気ない出来事に笑い合い、他愛のない会話を交わす。その姿が、明日も、その先も、変わらず続くのだと信じていた。
優しく、幸福に満ちていた。
――刻印を持ったあの男たちが現れる、その時までは。
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「…………」
ルーンは目を覚ました。
暗い天井が、ぼんやりと視界に映っている。
しばらくの間、思考は定まらなかった。まだ意識が夢と現実の境界に留まっているような感覚。
静かな室内。
夜の冷えた空気。
掛け布団の重み。
「……?」
その中で、頬を伝う感触に気づく。
指先で頬に触れると、そこは濡れていた。指先に残った涙を見つめ、ルーンは小さく瞬きをする。
「……夢、?」
掠れた声が漏れた。
上体を起こし、先ほど見ていた夢を思い返す。
両親がいた。
兄がいた。
そして、幼い自分がいた。
皆で笑っていた。
今となっては遠い、遥かな過去の光景。
「…………っ」
胸の奥が、わずかに痛んだ。
両親の顔が脳裏に浮かぶ。
優しかった母。
料理が得意で、常に家族のために食事を用意してくれた。
そして父。
多忙な中でも時間を見つけ、自分と遊んでくれた。
あの頃の記憶は、今も彼女の中に残っている。
失うことのできない大切な記憶だった。
「…………きゅ?」
そこで、小さな声が聞こえる。
視線を落とすと掛け布団の上で丸くなっていたブルーテイルが、ゆっくりと顔を上げていた。
黒く丸い瞳が、じっとルーンを見つめている。
「……起こしてしまったかしら」
「きゅ……」
ブルーテイルは眠たげに瞬きをした。
ルーンは口元を緩め、その小さな体へそっと手を伸ばす。撫でると、ブルーテイルは心地よさそうに目を細めた。
「ふふ……」
その様子を見ていると、張り詰めていた緊張がわずかに緩んでいく。
もう一度、優しく撫でる。
柔らかな毛並みを指先に感じながら、ルーンは静かに息を吐いた。
「………さがして」
「……え?」
その時、声がした。
ぴくりとルーンの手が止まる。
今、誰かの声が聞こえた。
慌てて周囲を見渡す。
室内は暗く、窓も壁も家具も、すべてが夜の闇に沈んでいた。
「!」
そして、見つけた。
襖の近くに人影が立っている。
「…………」
小柄な影。
それは子供のようだった。
暗闇のため、表情まではわからない。
「さがして。ほうせき……」
ぽつりと声が落ちる。
目を凝らせば、徐々に、その姿が輪郭を帯びていく。
黒いワンピース。
長い髪。
小さな体。
「……!」
ルーンは息を呑んだ。
彼女には見覚えがあった。
以前、学び舎で目にした少女だ。
「さがして……」
少女は同じ言葉を繰り返す。
「……あなたは、誰なの?」
緊張した面持ちで、ルーンは問いかける。
しかし少女は答えない。
「さがして。ほうせき……」
「…………」
「わたしの、くろいほうせき……」
ルーンの表情が強張る。
「……宝石を探しているの?」
少女は応じない。
ただ同じ言葉を繰り返す。
「さがして。ほうせき。わたしのほうせき……」
胸の奥がざわつく。
言い知れぬ不安が広がっていく。
ルーンの身体がわずかに震えた。
その変化に気づいたのか、ブルーテイルが顔を上げる。
「きゅ?」
不安げな声。
ルーンはブルーテイルに視線を向け、再び少女へと目を戻した。
少女はゆっくりと歩みを進めてくる。一歩。また一歩。確実に距離を詰めてきた。
「さがして……わたしのほうせき……」
「…………」
ルーンは布団から離れようとしたが、しかし身体が動かない。
「……っ」
逃げなければ。
そう理解しているにもかかわらず、手足が言うことを聞かなかった。
「きゅう!」
その時、突然ブルーテイルがルーンの胸元へ飛び込んでくる。
「……!」
小さな体が寄り添う。
まるで"落ち着いて"と言われているようだった。
「大丈夫よ……」
声が、わずかに震える。
「さがして……」
少女がさらに一歩近づく。
「わたしのほうせき……」
そして。
「……お姉ちゃんのほうせき」
「……!」
心臓が跳ねた。
ルーンの瞳が大きく見開かれる。
少女は目の前にいた。
小さな顔が、ゆっくりと近づいてくる。
視界いっぱいにその姿が広がる。
「…………っ」
息が詰まる。
声が出ない。
額に冷や汗が滲む。
少女の瞳が、真っ直ぐにルーンを見つめていた。
「お姉ちゃんのほうせき」
静かな声。
「さがして」
「…………」
「お姉ちゃんのほうせき」
その言葉が、頭の中に反響する。
聞いているうちに、胸の奥に何かが引っかかった。
知らないはずの言葉。
黒い宝石なんて、知らないはずなのに。
それなのに。その言葉を聞くと、胸の内側にある何かを揺さぶられているような感覚があった。
「……わたし、の……ほうせき」
ルーンの唇が震える。
自分でも理由がわからないまま、その言葉が零れた。
「さがして……」
少女の口元が、わずかに緩む。
「…………」
そして。
少女の姿は静かに闇へと溶けていった。
輪郭が薄れ。
髪が消え。
黒いワンピースも消失し。
やがて、その存在そのものが消え去る。
「…………」
静寂が戻る。
ルーンはしばらく動けなかった。
やがて、ようやく身体に力が戻る。
「……はっ」
小さく息を吐く。
動ける。先ほどまでの麻痺が嘘のようだった。
「きゅう?」
胸元からブルーテイルが顔を覗かせる。
不安げな視線。
ルーンはその小さな体に触れた。
指先がまだわずかに震えている。
「……大丈夫よ」
「……きゅう」
落ち着いた声を出す。
「何でもないわ」
そう言いながら、ブルーテイルを優しく撫でた。
何度も。何度も。
自身も落ち着かせるように。
「…………」
少女の言葉が頭から離れない。
――お姉ちゃんのほうせき。
――わたしの、くろいほうせき。
「…………」
ルーンは俯いた。
黒い宝石。その言葉が胸の奥に重く沈む。
でも、今は考えたくなかった。
少しだけ落ち着く必要がある。
そう判断したルーンはブルーテイルを抱き上げ、布団から立ち上がった。
「水でも飲みましょうか」
「きゅ」
足を動かす。
足元は不安定だった。
襖を開けると、冷えた夜気が頬を撫でる。
「……………」
ルーンは背後を振り返る。
暗い室内には誰もいない。
当然のように少女の痕跡もない。
「…………」
静かに襖を閉める。
ブルーテイルを抱いたまま、ルーンは廊下へと歩みを進めた。
その胸の奥には、先ほどの夢とは異なる不可解な記憶の断片が残っていた。




