カフルエルとシエル 2
石造りの長い廊下を、カフルエルはひとり歩いていた。
「はぁ、……はぁ……っ」
周囲に響く足音が廊下に乾いた余韻を残す。
呼吸は浅く乱れている。焦点の定まらない瞳は廊下の先を捉えられず、頭の奥では鈍器で殴られ続けるような痛みが脈打っていた。
胸の奥では、黒い花が狂ったように蠢いている。
「ぐ、……ぁ……っ」
胸元を押さえ、壁に手をつく。それでも痛みは引かず、全身の力が少しずつ奪われていく。
このままでは意識を失ってしまう。
そんな予感が脳裏をよぎった。
一度立ち止まり、荒い息を整える。
その時、カツカツと静かな通路に、軽やかな靴音が響いた。
ゆっくりと顔を上げると、一人の女がこちらへ駆け寄ってくる。
揺れる茶色の髪。
整ったメイド服。
優しげな瞳。
「……カフルエル様。どうかなさいましたか?」
穏やかな声だった。
だが、その顔には見覚えがない。
「……だれ、だ」
ようやく絞り出した問いに、女は答えなかった。
代わりに、背後から低い声が響く。
「そいつはシエルだ」
声に振り返る。
そこには青いコートを羽織った長身の男が立っていた。
「シエル……だと?」
「彼女は成長したのだ。学び舎で浴びた数多の呪いが、体内の花へ十分な養分を与えた」
男は淡々と告げる。
「お前も今、同じ時を迎えている。耐え抜けば、お前の花も新たな姿へ至るだろう」
「何を……っ、ぐっ……!」
言葉の途中で激痛が走る。
膝が折れ、その場へ崩れ落ちそうになる体を女が素早く支えた。
「お気をつけください、カフルエル様」
細い腕とは思えないほど力強く体を支えられ、彼は辛うじて立ち上がる。
「お部屋までご案内いたします」
頷く余裕もなく、カフルエルは彼女に身を預けた。
顔を向ける。
青いコートの男は、もうどこにもいなかった。
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部屋へ戻ると、カフルエルはそのままベッドへ腰を下ろした。
肩で息をしながら額の汗を拭い、少し離れて立つ女を見つめる。
「……本当に、お前はシエルなのか」
女は静かに胸へ手を添えた。
「はい。私はシエルです、カフルエル様」
その口調は穏やかで上品だった。
これまで共にいた少女とは、まるで別人に見える。
「……そんな話し方だったか」
「本来の私はこのように話します。以前は花の影響で、心が大きく歪められていたので…」
その説明に、カフルエルは目を伏せた。
花は宿主の感情を増幅し、本来の人格さえ塗り替える。その例を彼は何度も見てきた。彼女もその一人だった、ということだ。
ならば、目の前にいる彼女こそが本当のシエルなのかもしれない。
「……っ」
だが、胸を暴れ回る花は考える時間すら与えてはくれない。
痛みがまた強くなる。
息を整えても、少しも楽にならない。
眠ろうとして目を閉じても、胸の内側から鋭い棘が突き刺さるようだった。
「カフルエル様」
その時、静かな声が耳に届く。
目を開けると、シエルはすぐ目の前まで歩み寄ってきていた。
「私をお使いください」
そう言って、胸元のリボンに手を掛ける。
「花を大人しくさせるためには、花の力が必要です。ですから、私の力が貴方の花を鎮められるかもしれません」
言いながら、リボンを解く。
そのまま服を脱ごうとするシエルをカフルエルはゆっくり首を振って止めた。
「やめろ」
「ですが、このままでは」
「やめろ……。…服を戻せ。何もするな…っ」
「…………」
低く、はっきりと言う。
シエルは言葉を失った。
自分の身より、彼は彼女の負担を案じている。
その事実が胸の奥へ静かに染み込む。
「……分かりました」
彼女はそれ以上は何も言わなかった。
何もするな。と言われた。
カフルエルは、ただその痛みに耐え続けて、何もせず痛みが引いていくのを待つつもりなのだろう。
「…………」
脱ぎかけていた服を戻し、立ち尽くす。
しかし、何もせずにただ待つだけなんてシエルには耐えられなかった。大切な人が苦しんでいる姿を見ているしか出来ないなんて、どんな苦行か。
「…………」
ならば、自分には何が出来るだろう。
少し考えたあと、彼女はカフルエルの隣へ静かに腰掛けた。
「何だ」
「大丈夫。もう何も言いません」
柔らかな微笑みを浮かべる。
「ですが、おそばにいさせてください。…こうして近くにいるだけでも、私の花は貴方の花を感知し、共鳴する。その状態で魔力を注げば症状は和らぎますわ」
それだけ言うと、シエルは静かに目を閉じた。祈るように両手を重ね、小さく呼吸を整えていく。
やがて彼女の花から漏れ出した穏やかな魔力が、部屋の空気へ静かに溶け込んだ。
張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。
カフルエルは静かに胸へ手を当てた。暴れ続けていた黒い花が、ほんのわずかではあるが、その勢いを弱める。
「………」
隣を見る。
眠っているわけではない。
静かな祈りを続けながら、シエルはただ彼の存在を支えようとしていた。
「…………、」
カフルエルはゆっくりと手を伸ばす。
そっと彼女の頬へ触れると、シエルは薄く目を開け、小さく微笑んだ。
その穏やかな笑みを見た瞬間、胸の奥で荒れ狂っていた黒い花は、まるで春風に揺れる木々のように静まり始める。
完全に痛みが消えたわけではない。
それでも先ほどまでの苦しさは、確かに遠のいていた。
「……無理をするな…っ」
かすれるような声で漏れたその一言に、シエルは静かに首を横へ振る。
「無理はしていませんわ。私がやりたいからやっているんです」
部屋は静寂に包まれた。
激しい嵐が過ぎ去ったあとのような、穏やかな静けさだった。
その静寂の中で、二人は何も語らず、ただ同じ時間を分け合っていた。




