音色
「じゃあ、ルーン!一緒に歌おう!」
「……え?」
思いがけない提案に、ルーンは目を瞬かせる。
てっきり依千蔵の時と同じように小さな傷を作り、それを治癒歌で治す練習をするのだと思っていた。
けれど今、フィラーラは確かに「一緒に歌おう」と言った。聞き間違いではない。
「……歌うの?」
「うん!」
迷いのない笑顔に、ルーンは戸惑いながらも頷く。
フィラーラは嬉しそうに立ち上がると、そのままルーンの手を引いて縁側へと向かった。庭へと続く履き物を履き、外に出る。
「きもちー!」
朝の庭には柔らかな日差しが降り注ぎ、草花の葉先にはまだ小さな露が残っていた。風が吹くたび木々がさわさわと揺れ、小鳥のさえずりがどこからか聞こえてくる。
ブルーテイルは縁側へちょこんと座り込み、前足を揃えながら二人を見つめた。
「すぅー……はぁー……」
庭へ出ると、フィラーラは大きく両手を空へ伸ばした。
胸いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくり吐き出す。
「ほら、ルーンも!」
「え……ええ」
少し照れくさそうにしながらも、ルーンも同じように両腕を伸ばす。
深く息を吸い込めば、澄んだ朝の空気が肺いっぱいに満ちていく。
何度か深呼吸を繰り返した後、フィラーラは口を小さく開いた。
「───」
静かな旋律が流れ出す。
歌というより、それは声を整えるための発声練習だった。高く、低く、波を描くように音が揺れる。
やがて満足そうに頷くと、フィラーラはルーンへ振り返った。
「……よしっ。それじゃあ、ルーン。歌うよ!」
「!」
どうやら本当に一緒に歌うらしい。
ルーンは困ったように首を傾げた。
「えっと……私も歌う必要ある?」
「ん?あるよ」
フィラーラは当然のように頷く。
「一緒に歌うとね、その人の音色がわかるの」
「音色?」
「うん。依千蔵にもね、最初に歌わせたんだ」
「依千蔵にも?」
「うんっ。ちょっと音痴だった。でも、音色を聞くのに音痴なのは関係ないから、ルーンもちょっと音痴でも問題ないよ」
思い出したか、フィラーラはくすっと笑みを浮かべる。
「…………」
何とも返しづらい励ましだった。
ルーンは複雑そうな表情を浮かべる。
桃華から聞いた話によると、人魚族は相手の"音色"を知り、その波長を合わせることで治癒歌の成功率を高められるという。だから最初に一緒に歌う必要があるらしい。
波長合わせは一度行えば十分なんだそうだ。
「あとでシオンとフィルたちにも歌ってもらうんだ!」
嬉しそうに宣言するフィラーラ。
その言葉にルーンは心の中だけで思った。
「(フィルはともかくとして……シオンは歌ってくれるのかしら)」
「必要ない」「面倒だ」「あとで」
そんな理由を並べて逃げ回るシオンの姿が容易に想像できた。
でも、フィラーラなら半ば強引にでも捕まえて歌わせそうではある。
「じゃあ、わたしの声に合わせてね」
そして、フィラーラが優しく言う。
「どこからでも入ってきて大丈夫だから」
「……ん。わ、わかったわ」
ルーンは小さく咳払いをし、喉の調子を整える。
歌を歌うのは、幼い頃以来かもしれない。ちゃんと歌えるだろうか。
不安はあった。しかし、フィラーラを手伝うと決めたのだ。逃げるわけにはいかない。
「────」
フィラーラが歌い始める。
朝風へ溶け込むような澄み切った歌声。
優しく、それでいて芯のある音。
その歌を聞いた瞬間、ルーンは少しだけ気後れした。
「(こんな綺麗な歌声の中に、私の声が入ってしまっていいのかしら……)」
自分だけが不協和音になってしまう気がしてならない。
申し訳ない気持ちが胸の中で膨らんでいく。
けれど、これも治癒歌を身につけるため。
そう自分へ言い聞かせる。
「……は、──」
意を決してゆっくりと息を吸い込み、ルーンは口を開いた。
「きゅっ?」
彼女の歌声が庭へ響いた瞬間、縁側にいたブルーテイルがぴんっと耳を立てる。
「───」
二人の歌声が重なっていく。
透き通るフィラーラの声。
少し落ち着いた、柔らかなルーンの声。
異なる音色なのに、不思議とぶつかることはない。
風に乗って空へ昇り、庭中へ優しく広がっていく。
「……………」
ルーンはちらりと隣を見る。
フィラーラの歌い方を真似しながら、同じ旋律を丁寧になぞっていく。
歌はしばらく続いた。
木々が揺れる音。
鳥のさえずり。
二人の歌声。
その全てが朝の庭へ静かに溶け込んでいく。
やがて旋律はゆっくりと終わりを迎え、二人は口を閉じた。
「……ふぅ」
ルーンは小さく息を吐く。
緊張していたせいか、思っていた以上に肩へ力が入っていたらしい。
「きゅうっ!」
ブルーテイルが縁側から勢いよく飛び降りる。
そのままルーンの足元まで駆け寄ると、嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「え、……えっと」
ルーンは戸惑いながらフィラーラを見る。
「これでいいのかしら?」
正直、自分ではさっぱりわからなかった。
ちゃんと歌えていたのか。外していなかったのか。不安ばかりが募る。
だが、その問いに返事はない。
「……?」
見ると、フィラーラは俯いたまま小さく肩を震わせていた。
何か様子がおかしい。
「フィラーラ?」
ルーンはそっと声を掛ける。
「……もしかして、何か違った?」
胸の奥がざわつく。
もしかして、歌い方を間違えたのだろうか。それとも、あまりにも音痴で聴いていられなかったのだろうか。
何も言わないフィラーラを前に、ルーンは困ったように眉尻を下げる。
「…………」
どう声を掛けようか迷っていると、フィラーラはぱっと顔を上げた。
その顔は満開の花が咲いたような、とびきりの笑顔だった。




