治癒歌
翌朝。客室には穏やかな朝の陽射しが差し込む。
食事を終えたフィラーラと依千蔵は、テーブルを挟んで向かい合って座っていた。
「やった!依千蔵!ちょっと治ったよ!」
「んー、半分くらいは回復ってところか?」
弾むような声が部屋に響き、依千蔵は自分の腕を眺めながら苦笑する。
そこへ、台所から戻ってきたルーンが客室へ姿を現した。肩にはブルーテイルが乗っており、小さな体を揺らしながら辺りを見回している。
「二人とも、何をしてるの?」
声を掛けると、二人は同時に振り返った。
「ルーン!見てみて!傷ちょっと治ったよ!」
嬉しそうに言いながら、フィラーラは依千蔵の腕を両手で持ち上げる。
そこには小さな切り傷がいくつかあり、そのうちの一つは確かに薄くなっていた。
「治ったって、何?」
「わたしね、今、治癒歌の練習してるの」
「ちゆうた?」
「きゅう?」
ブルーテイルも首を傾げて鳴く。
「人魚族だけが使える治癒魔法のひとつなんだってさ。桃華姉ちゃんに聞いたらそう言ってた」
依千蔵が説明すると、ルーンは小さく頷いた。
「そう。……で、依千蔵はその実験台?」
「うんっ。実験台!」
「実験台って言うな!協力者と言え!」
真顔で答えるフィラーラに、依千蔵がすかさず突っ込む。
依千蔵の腕には薄く残る細かな傷跡が何本も刻まれていた。それだけの傷があるということは、何度も歌を歌い、何度も試してきたという証なのだろう。
「ったく……。まぁでも、ずっとやってた甲斐はあったよ」
依千蔵は腕を軽くさすりながら言う。
「やるたびに上達してるし、この調子なら近いうちに実戦でも使えるんじゃね?」
「本当!?」
そう言うとフィラーラは瞳を輝かせ、嬉しさのあまり依千蔵の腕をぶんぶんと振った。
「振るな!」
慌てて腕を引き抜き、依千蔵は大きくため息をついた。
「じゃあ、俺はもう家を出るから。……俺が帰ってくるまで、歌の練習しとけ」
「わかった!練習頑張ってる!」
元気よく返事をすると、依千蔵は近くに置いてあった学び舎の鞄を肩へ掛ける。
「じゃ、いってくる」
そしてフィラーラとルーンに背を向け、そのまま玄関へ向かった。
数秒後、「いってきまーす!」という声が家の外から聞こえ、扉の閉まる音が静かに響く。
「……………」
ルーンは客室の壁に掛けられた時計へ目を向けた。
時刻は八時前。本来ならば彼女も学び舎へ向かう時間だ。しかし体調を考慮し、今日は休むことになっている。
ケインには既に連絡済みだ。
「…………、」
これから何をして過ごそうか。
そんなことを考えながら立ち尽くしていると、
「ルーン!ルーン!」
フィラーラが嬉しそうに手を振って彼女を呼んだ。
「何?」
ルーンは歩み寄り、隣へ腰を下ろす。
ブルーテイルも肩から膝の上へ移り、ちょこんと座った。
「ルーン。わたしの歌、聴いてて」
「ん?」
フィラーラはにこりと笑い、静かに深呼吸をする。
やがて目を閉じ、小さく息を吸い込むと、透き通るような歌声が客室いっぱいに広がった。
「!」
それは、ルーンの知らない旋律だった。
澄みきった泉に流れる水のように優しく、柔らかな歌。その一音一音が空気へ溶け込み、部屋全体を穏やかな空気で満たしていく。
「…………」
自然とルーンは目を閉じた。
耳を澄ませる。歌を聴いているうちに、不思議な感覚が全身を包み始めた。
温かくも冷たくもなく、まるで穏やかな水の中へ身を委ねているような心地よさ。疲れも、不安も、ゆっくりと溶けていく。
このままずっと聴いていたい。
そんな思いが胸に芽生えた、その時──。
「……──、……あ、……あぅ。」
突然、歌声が止まる。
ルーンは静かに目を開けた。
「どうしたの?」
「きゅう?」
ブルーテイルも心配そうに鳴く。
フィラーラは眉を下げ、申し訳なさそうに俯いていた。
「ここから……メロディがよく掴めない……」
「メロディ?」
「うん……。治癒歌は難しくて、大人でも使える人は少ないんだって、ももか言ってた」
彼女は小さく頷いて、膝の上で両手を握りしめる。
「治癒歌のこと、グリーンが教えてくれたの。それまでわたし、治癒歌の存在すら知らなかった。凄く難しい歌だから、ももかくらいの年齢にならないと教えてはくれないんだって」
少しずつ言葉を紡ぎながら続け、そこで言葉が途切れた。
「……ももかなら、歌えるのかな」
最後にぽつりと呟かれたその声はどこか寂しげだった。
ブルーテイルも耳をしゅんと垂らし、慰めるようにフィラーラの膝へ移動する。
ルーンはそんな一人と一匹を静かに見つめた。
「ねぇ、フィラーラ」
「なに?」
「フィラーラは、どうして治癒歌を覚えようとしているの?」
「うん……」
その問いにフィラーラは顔を上げ、小さく頷く。少しだけ考え、胸の内をゆっくりと語り始めた。
「わたしね。ルーンたちの役に立ちたいの」
「私たちの?」
「うん」
真っ直ぐな瞳。
「わたし……今まで何もしてなかった」
その言葉には自分自身への悔しさが滲んでいた。
「ルーンたちが戦ってる時、ずっと後ろに下がって見てるだけだった。……今回も、わたし役に立てなくて、足手まといになっちゃって、シオンに迷惑かけた」
唇をきゅっと結び、悔しさを押し殺すように俯く。
「わたし、いつまでもみんなの荷物になるの嫌だって思ったの」
その声は震えていた。
「そしたら、グリーンが言ってくれたの。わたしの歌には、作る以外にも力があるって。その力でみんなを助けられるって」
「……なるほど。それが治癒歌ってわけなのね」
「うんっ」
頷くと、フィラーラの笑顔が少しだけ戻る。
その笑顔を見つめながら、ルーンは胸の奥で一つ決心した。
「わかったわ、フィラーラ。そういうことなら、私も協力する」
「え?」
真っ直ぐ彼女を見据える。
驚いたようにフィラーラが目を丸くした。
「貴女の『力になりたい』っていう想いは、凄くよくわかるの。私にも、そういう時期があったから」
「ルーンにも?」
「ええ」
ルーンはどこか懐かしそうに微笑んだ。幼い頃を思い出すように目を細める。
「ものすごく幼い頃にね。それで結構、兄さんたちを困らせていたわ」
少し照れたようにルーンは笑う。
そして小さく首を傾げた。
「……駄目かしら?」
「そ、そんなことない!」
その言葉にフィラーラは勢いよく首を横へ振り、ぱっと花が咲いたように表情が明るくなる。
「ルーンが協力してくれるの、凄く嬉しい!ありがとう!」
その笑顔は朝日よりも眩しかった。
それを見て、ルーンも自然と口元を緩める。
客室には再び穏やかな空気が流れた。




