黒い宝石
空間があった。何もない空間だった。
空も、大地も、果てすら存在しない。ただ白とも黒ともつかない静寂だけが、どこまでも広がっている。
その空間を、二人の少女が歩いていた。
一人は、黒いワンピースを身にまとった幼い少女。もう一人は、同じく黒いドレスをまとった少女だった。
幼い少女は無邪気な笑みを浮かべ、隣の少女の手をしっかりと握っている。
対照的に、少女の瞳には光がなかった。焦点の合わない虚ろな瞳。
歩いているのに、自分の意思で歩いているようには見えない。
二人の歩みを導いているのは、明らかに幼い少女のほうだった。
何もない空間を。二人の少女は、ただひたすらに歩き続ける。
どれほど時間が流れたのだろうか。
静寂を破るように、幼い少女が弾んだ声を上げた。
「わたしのほうせき!」
その言葉が響いた瞬間、二人の目の前にひとつの宝石が現れる。
真っ黒な丸い宝石。闇を閉じ込めたように黒く、それでいて吸い込まれそうなほど美しく輝いた宝石だった。
その宝石を見た瞬間、胸の奥がざわつく。
同時に、強い警鐘が鳴り響いた。
触れてはいけない。あの宝石だけは、絶対に。
叫ぶ。
だが、その声は二人には届かない。
幼い少女は少女の手を離すと、嬉しそうに宝石へ駆け寄っていく。
少女はその場に立ち尽くしたまま、小さく体を揺らしていた。
「わたしのほうせき!やっとみつけた!ほら、おねえちゃん!おねえちゃんもほうせきにさわって!」
幼い少女が満面の笑みで呼びかける。
少女はゆっくりと顔を上げ、黒い宝石を見つめた。虚ろだった瞳が、その宝石だけを映している。
やがて、一歩。また一歩。
ドレスの裾が揺れ、硬い靴音だけが静かな空間へ響く。
駄目だ。触れてはいけない。
何度も叫ぶ。届かないと分かっていても、叫ばずにはいられない。
その宝石に触れてはいけない。君だけは。
少女は宝石の前で立ち止まった。
「……私の、宝石」
掠れるような小さな声。
それを聞いた幼い少女は、口元をゆっくりと歪めた。
まるで獲物を追い詰めたかのような笑み。
「そうだよ。これは、おねえちゃんのほうせき」
甘く囁きながら、少女の手を宝石へと導こうとする。
少女は抵抗することなく、黒い宝石へ手を伸ばした。
あと少し。もう少し。
指先が宝石に触れようとした、その瞬間。
「ルーン!!」
鋭い叫び声が空間に響き渡った。
少女の手がぴたりと止まる。
幼い少女もぴくりと肩を震わせ、眉をひそめて振り返った。
「ルーン!!」
もう一度。
今度はさらに切迫した少年の声。
その声には焦りと必死さが滲んでいた。
ルーン。
それが少女の名前なのだろうか。
少年は何度も彼女を呼ぶが、その姿はどこにもない。
見渡しても、白い空間には少女たちしか存在しない。声だけが響き続ける。
幼い少女は不機嫌そうに宝石から一歩離れ、少年の声を睨みつけるように辺りを見回した。
少女は止まったまま何も言わない。
虚ろな瞳だけが、わずかに揺れていた。
+
「…………」
――そこで、夢は途切れた。
青年はゆっくりと目を開く。
藍色の髪がさらりと揺れ、静かに上体を起こした。窓から吹き込む風が心地よく頬を撫でる。
外では木々の葉が風に揺れ、数羽の青い鳥が青空へ飛び立っていった。
穏やかな景色に、青年は自然と口元を緩める。だが、その笑みは長くは続かなかった。
立ち上がり、歩きながら思考を巡らせる。
「………はぁ」
また、あの夢だ。
何もない空間。
黒い服を着た二人の少女。
そして、姿の見えない少年の叫び声。
最近になって、同じ夢ばかりを見るようになっていた。
始まりも終わりも、毎回まったく同じ。何かを伝えようとしているのか。それともこれは、忘れてしまった記憶なのか。
「……………」
青年は顎に手を添え、小さく息をつく。
考えても答えは出ない。
やがて目的の部屋へたどり着き、重厚な扉を静かに開いた。
部屋へ一歩踏み入れた瞬間、青年の足が止まる。
「…………」
部屋の中央には、一つの台座が置かれていた。その上には、黒い宝石が静かに鎮座している。
何本もの銀色の鎖が幾重にも巻きつき、宝石を縛りつけていた。飾られているというよりも、外へ出られないよう封じられている。そんな印象を与える姿だった。
さらに、その周囲は厚いガラス製のカバーで覆われ、誰一人として触れられないよう厳重に守られている。
「………、」
青年は無言で宝石を見つめた。
夢の中に現れたものと、寸分違わぬ黒い宝石。闇を閉じ込めたような漆黒の輝きが、静かな部屋の中で不気味な光を放っていた。
青年は静かに眉をひそめる。
「あの夢は……いったい何なんだ」
誰に向けるでもない問いは、静まり返った部屋に溶けて消えていった。




