黒いワンピースの少女
ルーンは少女の背中だけを見つめ、静まり返った廊下を駆け続ける。
「は、……はっ、待って……!待ちなさい!」
息が上がる。
しかし少女は振り返ることなく、小さな足で軽やかに走り続ける。
ルーンの声は聞こえていないようだ。
やがて少女は階段へたどり着くと、そのまま駆け下りていく。
「……っもう!」
ルーンも迷わず後を追う。
手すりを掴みながら一気に階段を下り、少女の姿を見失わないよう視線を前へ向け続けた。
そして辿り着いた先には──。
「……ここ、図書室?……はぁ……」
息を整えながら、ルーンは図書室の前で立ち止まる。そこの扉は半開きになっていた。
少女は確かに、この中へ入っていった。
「…………」
ルーンは警戒しながら扉を押し開ける。
軋んだ音とともに姿を現した図書室は、先ほどまで彼女がいた光景と同じ、本棚は倒れ、本は床一面へ散乱し、椅子や机もあちこちへ押し倒されていた。
変わらず足の踏み場もないほど荒れ果てた室内を見渡し、ルーンは本を踏まないよう慎重に歩みを進める。
一歩ずつ。一歩ずつ。
静かな空間に、自分の足音だけが小さく響く。
「!」
そして、図書室の奥。
そこに少女は立っていた。
こちらへ背を向け、小さな体を震わせながらぽつりと呟く。
「わたしのほうせき……」
その声が聞こえた瞬間、少女は再び走り出した。
図書室のさらに奥。ダークエルフに関する資料が保管されている小部屋へと消えていく。
「待って!」
ルーンも後を追い、その部屋へ飛び込んだ。
部屋の中はやはり先ほどと同じ。
あとでこの場所も片付けなければ。
そう思いながら周囲を見渡し、散らばった資料のある場所の向こう、少女は一つのテーブルの前で立ち止まっていた。
「……ねぇ、あなた」
ルーンは静かに声を掛ける。
少女がゆっくりと振り返った。
長い紫色の髪の隙間から見えた表情は、ひどく寂しげだった。
「ここにもない………わたしの、くろいほうせき」
「黒い……宝石?」
小さな唇が震える。
ルーンが首を傾げた、その時。
ガチャンッ!と、突然、室内へ甲高い音が響き渡った。
「……っ!」
思わず肩を震わせ、音のした方を見る。
「ない……ないぃぃぃぃっ……!」
少女は涙を零しながら叫んだ。
その声と同時に本棚の上へ積まれていた数冊の本が崩れ落ち、近くに置かれていたガラス製のケースを巻き込んで床へ落下する。
砕け散ったガラス片が床へ飛び散り、ルーンの足元へ転がった。
「うえぇぇぇぇん!ふええぇぇん!!」
少女は大声で泣き続ける。
ルーンは慎重に近付き、その中に埋もれていた一冊の本を拾い上げた。
「……これは」
それは古びた日記帳だった。
革張りのカバーは擦り切れ、何度も使い込まれた跡が残っている。所々破れ、もはや表紙を守る役目は果たしていない。
ルーンは丁寧に埃を払い、ゆっくりとページを開く。びっしりと並ぶ文字。細かな筆跡で書き綴られた文章が何ページにも続いていた。
「……何かしら、これ。全然読めない」
見たことのない文字だ。
この大陸で使われている古い文字なのだろうか。あるいは、もっと別の言語か。
「ねぇ、あなた……」
ルーンには判別できず、少女へ問い掛けようと顔を上げる。
しかし。
「……え?」
そこにはもう誰もいなかった。
部屋の隅。入口。机の陰。
どこを見ても黒いワンピースの少女の姿はない。
まるで最初から存在していなかったかのように、その場には静寂だけが残されていた。
「…………」
ルーンは部屋を見回し、それから静かに手元の日記帳へ視線を落とす。
「……私の、黒い宝石」
少女の言葉を小さく繰り返す。
開かれたページには文字だけではなく、幼い子どもが描いたような拙い絵も残されていた。
丸い形をした黒い石のようなものの隣には、小さな女の子と誰か大人らしき人物が並んで描かれている。
「(この絵、どこかで……)」
ルーンは無意識のうちに、そのページを見つめ続けていた。
+
「……あいつ、遅いな」
依千蔵は腕を組み、教室の入口へ目を向けた。
ルーンが水を汲みに出てから、もう十分近くが経っている。
水道までは歩いても数分の距離だ。ゆっくり歩いていったのだとしても遅すぎる。
「(変に落ち込んでなきゃいいけど……)」
ルーンはそんな性格ではない。
しかしそう思う一方で、可能性がまったくないとも言い切れなかった。
「………っ」
依千蔵は小さく舌打ちする。
どうして自分は、こんなにもルーンのことを気にしているのだろう。
「…………」
ダークエルフ。
それは本来、自分にとって憎むべき存在だった。その思いは今も消えてはいない。
けれど、一緒に過ごした日々の中で知ってしまった。
ルーンという少女の不器用な優しさ。ダークエルフという種族が、自分の抱いていた印象だけでは語れないことを。
胸に渦巻いていた憎しみは少しずつ形を変えていたが、もちろんそれで全てを許せるわけではない。
それでも以前のように、顔を合わせるたび敵意をぶつけることはなくなっていた。
「……はぁ。ったく」
ため息を吐き、依千蔵は立ち上がる。
教室を出ると、廊下は先ほどまでとは別世界のようだった。黒い花は一輪も残っていない。
呪いの気配も感じられず、エーの浄化によって完全に消え去っていた。
依千蔵は水道のある方角へ目を凝らす。ルーンの姿はどこにも見当たらない。
「どこの水道まで行ったんだ?」
息を吐き、歩き出す。
その時──。
「きゅう!」
「わっ!?」
突然、何かが肩へ飛び乗ってきた。
驚いて視線を向けると、そこには小さな青い動物がちょこんと座っている。
「きゅうっ」
愛らしい鳴き声を上げたのはブルーテイルだった。
「ブルーテイル?お前、何でここに……」
疑問を口にした直後。
「依千蔵!」
廊下の向こうから声。
見ると、フィルが駆け寄ってきていた。
フィルが依千蔵のもとで足を止めるとブルーテイルはぴょんと軽やかに跳び、彼の肩へ乗った。




