校庭広場は異常なし
「ももか! ももかぁ……っ!」
耳の奥に届く切羽詰まった泣き声に導かれるように、桃華の意識はゆっくりと浮かび上がった。
重たい瞼をわずかに開くと、ぼやけた視界の向こうに映ったのは、今にも涙が零れそうなフィラーラの顔。
「……ここ、は?」
掠れた声で呟いた瞬間、フィラーラの表情がぱっと明るくなる。
「ももか!」
「!」
安堵したように彼女は桃華へ飛びつき、ぎゅっと抱きしめた。
突然のことに桃華は目を瞬かせる。
「………?」
自分は今まで何をしていたのだろう。
まだ覚醒しきっていない頭で必死に記憶を探る。すると、途切れ途切れだった記憶が少しずつ繋がり始めた。
「(たしか、私……男の子に首を絞められて…)」
男子生徒に首を絞められ、息ができず、このまま死ぬのだと思った。
そこへ、どこからともなく蒼い龍のような姿をした生き物が現れ、自分を救ってくれた。一瞬だけ、清龍が助けに来てくれたのだと思ったけど違った。
ぼんやりだけど、なんとなく覚えている。
「フィラーラ、いたい……」
「あっ、ごめん!」
抱きしめる腕に力が入り過ぎていたことに気付き、フィラーラは慌てて体を離した。
桃華はゆっくりと上体を起こし、周囲を見回す。そこは学び舎の校庭広場だった。どうやら広場に置かれたベンチで眠っていたらしい。
周囲には自分とフィラーラ以外の姿は見当たらない。
「他のみんなは?」
「ルーンたちは中だよ。あんぜんかくにん…?…に行った。わたしはお留守番」
言葉を選びながら一生懸命に答えるフィラーラに、桃華は静かに耳を傾ける。
カフルエルとシエルが姿を消した後、校舎を覆っていた黒いスライムは消え、学び舎全体を包んでいた禍々しい気配も大きく薄れた。
もう脅威は去ったと考えてもいいだろうとシオンは言っていた。しかし気配は微かに残っていたため、念のため彼らは校舎内の安全確認へ向かったのだという。
「私が気を失っている間も、大変だったんだね」
「うん。でも、もう大丈夫だろうって」
そう言って微笑むフィラーラの表情には、ようやく張り詰めていた緊張が解けたような色が見えた。
桃華は少しだけ視線を落とし、眉尻を下げる。
「……ねぇ、フィラーラ」
「ん?」
「ここに、……清、来てる?」
恐る恐る尋ねると、フィラーラは迷うことなく頷いた。
「うん。清龍さんも来てるよ。呼んでくる?」
「え、あ……ううんっ、大丈夫!」
桃華は慌てて首を横に振る。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「………」
あの時。
もし自分を助けてくれたのが、あの龍ではなく清龍だったなら。
そんな考えが頭をよぎるが、しかし気になることがひとつ。
「(でも……あの龍、どこかで……)」
脳裏に浮かぶ蒼く美しい鱗。
どこか懐かしさを感じる姿。
初めて見たはずなのに、どこかで会ったような気がしてならない。
「(どこで見たんだっけ…?)」
記憶を辿ろうとしても、靄がかかったようにはっきりと思い出せない。
小さく首を傾げて考え込んでいると、不意にフィラーラの視線を感じた。
桃華が顔を上げると、フィラーラは心配そうにこちらを見つめている。
「どうしたの?」
「ももか……ほんとに大丈夫?」
「ん?」
「さっき、起きる前……うなされてたから……」
「うなされてた?」
「うん。……嫌な夢でも見てたの?」
不安そうな問い掛けに、桃華は自分の体へ意識を向ける。
言われてみれば、体が少し冷えている。背中にはじっとりと汗が張り付き、不快な感覚が残っていた。
「うーん……あまり覚えてないけど……」
「そう……」
どこか安心しきれない様子のフィラーラを見て、桃華は柔らかく微笑む。
「それより、フィラーラは大丈夫?」
「?」
「怖くなかった?」
聞かれて、少し驚いたように目を丸くしたフィラーラだったが、すぐに元気よく笑った。
「……うんっ。へーき。 みんなが守ってくれたから!」
「……そう」
その笑顔を見た桃華も、自然と口元を緩める。
張り詰めていた心が、少しだけ軽くなった気がした。
「人魚の子」
そこで低く落ち着いた声が響き、二人はそちらへ視線を向ける。視線の先にいたのはホワイトだった。
校庭広場を見回っていた彼は静かに彼女たちへ歩み寄り、桃華が起きていることに気付くとその前で足を止める。
「起きていたか、桃色人魚の子。気分はどうだ?」
「……はい。大丈夫です。ご心配をおかけしてすみませんでした」
桃華は頭を下げる。
ホワイトは小さく頷き、周囲へ視線を巡らせた。
「ここら辺はあらかた見て回った。特に問題はない。学び舎の子らも問題なく生きている」
「……ほんとう?」
「ああ」
恐る恐る尋ねる。
短くも力強い返事に、フィラーラはほっと胸を撫で下ろした。
「こちらも問題はない」
その時、別方向からも声が聞こえ、グリーンが広場へ姿を現す。
ホワイトとグリーンは校庭広場を手分けして調査していたようで、双方とも異常は見つからなかったらしい。
彼らが言うのであれば、校庭広場にはもう危険はないと判断していいだろう。
「……………」
残るは校舎内のみ。
ホワイトとグリーンは互いに視線を交わし、静かに校舎の方へ目を向けた。
黒い瘴気は消え去り、静寂を取り戻した学び舎。
だが、その静けさの奥には、まだ何かが残されているような気配が微かに漂っていた。




