笑って言うな
黒く蠢くスライムが学び舎全体を覆い始めてから、どれほどの時間が過ぎただろうか。濃密な呪いの気配は刻一刻と強さを増し、空気そのものが重く淀んでいた。
最初は校舎中に響き渡っていた生徒たちの悲鳴も今ではほとんど聞こえない。ただ不気味な静寂と、ときおり響く獣じみた唸り声だけが廊下を支配していた。
「はぁ……っ、はぁ……」
苦しげな呼吸を繰り返すエーの肩に、朱咲はそっと手を添える。
「エー、気をしっかり」
「……うん……」
弱々しく頷く彼女の顔色は青白く、額には冷たい汗が浮かんでいた。先ほどの激戦で浄化の力を酷使したうえに、この校舎に満ちる呪いがさらに体力を奪っている。
彼女は巨大化した百虎の背中に身を預け、体を休めていた。
「きゅう……」
心配そうな声を漏らしたブルーテイルがエーの顔を覗き込む。
彼女の肩にはクロコがいて、小さな体を揺らしながらこくこくと眠り続けていた。
そんな彼女たちを守るように、依千蔵とフィルが先頭を進む。
「ゔああぁあっ!!」
「はっ!」
呪いに侵された生徒が叫びながら飛びかかってくる。依千蔵の拳が腹部へ叩き込まれ、生徒はその場に崩れ落ちた。
反対側から迫ってきた一人はフィルの盾に弾き返され、その勢いのまま壁へぶつかって気絶する。
命を奪わず、確実に無力化する。
それだけを繰り返しながら、一行は昇降口を目指して進んでいた。
「ごほっ……」
咳き込んだエーは胸を押さえ、小さく息を吐く。
「……ごめん……。私が、まだちゃんと力を使えれば……」
「そんなこと言わないで」
その声には悔しさが滲んでいた。
朱咲は優しく言葉を返すが、エーは申し訳なさそうに目を伏せる。
その様子を見たルーンもまた、胸の奥に走る鈍い痛みに眉を寄せた。
「っ……」
「ルーン、大丈夫か?」
フィルが振り返る。
「……ええ、平気」
そう答えながら、彼女は後方へ視線を向ける。
「私のことより、修介とショウコよ。あんなところに置いてきて本当に大丈夫なの?」
「ああ。心配はいらない。あそこはもう安全地帯だ。たとえどんなに邪悪なものが来ようと、俺たちの力が機能している限り決して寄せ付けない」
その問いに応えたのは、龍の姿をした清龍だった。力強いその言葉に、ルーンは少しだけ安堵の息を漏らす。
そこで、新たな疑問が浮かぶ。その疑問は依千蔵たちと合流した瞬間から浮かんでいたのだが、それどころではなかったため今の今まで保留にしていたものだった。
「あの……気になってたんだけど。この龍は、清龍でいいのよね?」
「ああ。正真正銘、俺の兄ちゃんだ」
依千蔵が答える。
"どうして人間の姿に戻らないのか。"
その問いに、清龍は自身の体で守るように支えている桃華へ静かに目を向けた。そして、短い沈黙のあと短く鼻を鳴らす。
「………面倒だからだ」
「面倒って…」
あまりにも簡潔な返答に、一瞬だけその場の空気が緩む。もちろんそれだけが理由ではないが、それはルーンたちには関係のないことだ。
「…………」
清龍は息を吐く。
そんな清龍を朱咲はじっと見つめていた。
しかし、和む時間は長くは続かない。一行は一階へ続く階段前へと辿り着き、足を止めた。
そこには呪いに飲まれた生徒たちが何人も立ちはだかっていた。まるで「ここから先へは進ませない」と言わんばかりに無言でこちらを見据えている。
「はぁ。……ほんとにこいつらは…」
依千蔵とフィルは、これまで通り同時に飛び出す。
その時、凛とした声が廊下に響いた。
「光を!」
次の瞬間、階段の方角から放たれた幾つもの光弾が一直線に飛来する。
閃光が走り、光を浴びた生徒たちは悲鳴を上げる暇もなくそのまま壁へ激突して床へ倒れ込んだ。
「……!」
フィルと依千蔵は思わず動きを止め、顔を見合わせる。
「うわ、ここもスゲェな…」
別の声も聞こえてくる。
何だ。と、依千蔵が思わず漏らした声の先。階段を駆け上がってきた人影を見て、ルーンたちは目を見開いた。
「ホワイト!?」
最初に姿を現したのはホワイトだった。
その後ろから、ヴィー、ターナ、シオン、フィラーラ、グリーンの順で続く。
「金色の子、ここにいたか」
フィルの声に振り向き、ホワイトは彼を見つけるとすぐに近づいてくる。そのままルーンへ視線を向けた。
「……大丈夫か、私のルーン」
「……『私の』はやめて」
即座に返ってきた呆れた声。
もう何度繰り返したかわからないやり取り。
それでもホワイトの姿を見たルーンは自然と肩の力を抜き、小さく息を吐いた。
「ルーン!」
フィラーラが抱きつく。
もはやこれもいつもの流れだ。
「エー…!」
ルーンたちが再会を噛み締める中、ヴィーは百虎の背中へ駆け寄る。
苦しそうに息をする彼女を見るなり、その表情が曇った。
「……大丈夫って感じじゃねぇな」
「ごほっ……ん……。ちょっと、張り切りすぎちゃった」
自然に口調が強くなる。
力なく笑うエーに、ヴィーは言葉を失った。
「エーは本当によく頑張ってくれたわ。あまり負担になるようなことは言わないであげて」
「……、……悪い」
朱咲が静かに言う。
ヴィーは短く謝ると、百虎へ向き直った。
「ここまで助かった」
その一言だけ告げる。
百虎は静かに鼻を鳴らし、体をヴィーの方に寄せた。
ヴィーは刀を鞘へ納めると、そっとエーを抱き上げる。同時にクロコがぴょんと飛び移り、エーの膝へ収まった。
「……んっ」
「ここで吐いたらぶっ殺す」
揺れに眉をひそめるエーを見て、ヴィーは顔をしかめる。ぶっきらぼうな物言いだったが、その声色に本気の怒気はなかった。
エーはゆっくりと息を吐き、口元を緩める。
「……大丈夫。さっき、一回吐いたから」
その返事にヴィーは小さくため息を吐いた。
「……そういうことは笑って言うな」
わずかな安堵を胸に抱きながら、彼はエーを抱え直す。
そこで最後尾にいたグリーンが周囲を見渡し、険しい表情で口を開いた。
「すぐにおぬしたちを見つけられてよかった。ここに長居は禁物だ」
黒い瘴気はさらに濃さを増している。天井を這うスライムも、まるで獲物を逃がすまいと蠢いていた。
「早く外へ出るぞ」
その一言に全員が力強く頷く。
依千蔵とフィルが先頭に立ち、ホワイトたちが周囲を警戒しながら続いた。
階段を駆け下り、昇降口を抜ける。
重苦しい校舎を背に、一行はようやく外へと飛び出した。




