実験
どくん、どくん、と胸が激しく脈打つ。
「っ、」
ルーンは何度もショウコの拳を受け、廊下の床へ倒れ込んでいた。
腕も肩も腹部も鈍い痛みに悲鳴を上げている。制服はあちこちが破れ、露わになった肌には青紫の痣がいくつも浮かんでいた。
息をするだけで身体中が痛む。
それでもショウコは止まらない。
無表情のまま拳を振り上げ、ただ機械のように攻撃を繰り返してくる。
「…あっ…!」
腕でどうにか受け止めるたび、衝撃が全身へ響いた。
一方、フィルもまた身動きが取れずにいた。
ルーンのもとへ駆け寄りたいと思っていても、修介の刀が容赦なく行く手を阻む。
斬り込みを盾で受け止め、押し返したところへ次の一撃が飛んでくる。離れる隙など与えてはくれなかった。
「一番に……!」
修介が叫ぶ。
「一番にならないと……っ、そうじゃないと意味がない!そうじゃないと俺は!俺は……っ!」
叫びと共に刀が振り下ろされる。
「くっ!」
フィルは盾でその一撃を弾き返し、大きく声を張り上げた。
「シエル!修介たちを元に戻してくれ!」
その言葉に、シエルは目を丸くした。
「どうして?」
あまりにも自然な問い返し。
「どうしてって……!結果はもう見えてるだろ!その花の煙を吸ったら、みんなおかしくなってオレたちを襲う!修介もショウコも、他の生徒たちも、君たちとは関係ない!」
フィルは声を荒らげる。
シエルは少しだけ考えるように目を伏せた。
「…………たしかに関係はないわね」
そして静かに微笑む。
「だけど、それは貴方たちの言い分でしょ」
冷たい瞳がフィルを映す。
「関係があろうがなかろうが、それこそ私たちには関係ないわ」
「シエル!」
フィルが叫ぶ。
するとシエルはふと何かを思いつき、小さく笑った。
「んー。でも、そうね……」
口元へ指を添え、楽しそうに呟く。
「もし、貴方が私のものになってくれるのなら考えなくもないわ」
「……は?」
「その子たちを戻してほしいんでしょ?」
フィルの思考が止まった。
シエルは真っ直ぐ彼を見つめたまま続ける。
「だったら、それと引き換えに私のものになってちょうだい。そしたら、この実験もやめてあげてもいいわ」
「な、に……」
柔らかな声だった。
廊下が静まり返る。
あまりにも予想外の条件だった。
一瞬、盾を握る力が抜ける。
その隙を修介は見逃さなかった。
「っ!」
刀の柄がフィルを強く突き飛ばす。身体は大きく吹き飛び、背中から壁へ激突した。
「がっ……!」
鈍い衝撃に顔をしかめながら、それでもフィルはシエルを見つめる。
冗談ではない。そのことは、彼女の真剣な眼差しが何より物語っていた。
「それほどの価値が貴方にはあるのよ、フィル」
シエルは頬をほんのり赤く染め、恍惚とした笑みを浮かべる。
「……私はね、貴方が欲しくてたまらないの。誰にも渡したくはない。そこのダークエルフのお嬢さんにも、誰にもね」
その声には迷いがなかった。
愛おしいものを見つめるような視線がフィルへ注がれる。
「悪くない話だと思うのだけど。貴方が私のもとへ来るだけで、その子たちは助かって、この騒動も終わる。実験は概ね成功したも同然だし、貴方たちも安心できる。どう?良い提案じゃない?」
シエルは穏やかに言い、くすりと笑う。
「…………ふざけないで」
すると低い声が廊下へ響いた。
シエルが視線を向けると、そこには腹部を押さえながら立ち上がるルーンの姿。傷だらけの身体で、それでも彼女は真っ直ぐ前を見据える。
瞬間、足元へ魔法陣が広がった。
「風よ…!」
轟音と共に突風が吹き荒れる。
修介とショウコの身体がまとめて吹き飛ばされ、壁へ激突した。加減された一撃ではあったが、不意を突かれた二人には十分だった。
そのまま気を失い、床へ崩れ落ちる。
ルーンは間髪入れず、新たな魔法陣を展開した。
「縛りなさい…っ!」
光の帯が二人へ伸び、身体を何重にも拘束する。これで目を覚ましても、すぐには動けない。
「あら」
シエルは目を瞬かせた。
「お友達に容赦ないのね、貴女」
「加減はしたわ。それに、やる気をだせって言ったのはそっちでしょ」
ルーンは答え、ゆっくりとフィルのもとへ歩み寄る。
「……大丈夫?」
「あ、ああ…」
手を差し伸べると、フィルはその手を握って立ち上がった。
ルーンはそのままシエルを鋭く睨みつける。
「何が"良い提案"よ」
怒りを押し殺した声。
「貴女の私欲だけで物事を言わないでちょうだい!フィルは貴女のものにはならないわ!」
一歩前へ出る。
その言葉に、シエルは少しだけ寂しそうに目を細めた。
「……いいの?なかなかの好条件なのに」
静かな問い。
視線は再びフィルへ向く。
「貴方も私を好きだって言ってくれたでしょ?あの言葉は嘘だったの?」
どこか確かめるような口調に、フィルはゆっくり首を振る。
「……言っただろ。オレの言う"好き"は、君の言う好きとは違うって」
一度、息を吸う。
「それに、オレは修介たちだけじゃなくて君にも元に戻ってほしいんだ」
まっすぐシエルを見つめ返す。
その言葉にシエルの表情が揺れた。
「カフルエルから……あいつから離れれば、君もきっと……!」
「っ!」
しかし、そう言うとシエルは表情を強張らせる。
足元へ魔法陣が広がり、次の瞬間、無数の氷刃がルーンたちの足元へ降り注いだ。
「っ!」
フィルは咄嗟にルーンの腕を掴み、後方へ引く。氷が床へ突き刺さり、激しい音を立てた。
「私はあの人から離れないわ!」
シエルの叫びが廊下へ響く。
「私はあの人のそばにいると誓ったの!それを引き離そうとする人は、たとえ貴方でも許さない!」
その瞳には強い決意が宿っていた。
激しい感情をぶつけたあとシエルは静かに息を吐き、肩から力を抜く。
「…………もういいわ。貴方の気持ちは、もう完全に私ではなくその子に持っていかれてるものね」
どこか諦めたように呟き、シエルは二人へ背を向けた。
「それに、こんな条件を出さなくてももうすぐこの実験は終わるわ。貴方たち全員の死亡。その結果と共にね」
「どういうこと?」
ルーンが問い掛ける。
しかしシエルは意味深に微笑むだけだった。
「ふふっ。どういうことかしらね?」
彼女の足元へ魔法陣が展開される。
「それじゃあね、フィル。お嬢さん」
青白い光が彼女の身体を包み込む。次の瞬間、シエルの姿は跡形もなく消えていた。
静まり返った廊下に残されたのは、彼女が最後に残した言葉だけ。
全員の死亡。
その不穏な一言が重く胸へ沈み、フィルとルーンは険しい表情のまま互いの顔を見合わせた。




