何も覚えてない
「……それじゃあ、ルーンはこれまでのことをまったく覚えてないんだな」
「ええ……」
泣きじゃくるマキノを宥めながら話を聞いた結果、ルーンはここ数日間の記憶をほとんど失っていることがわかった。
正確には、すべて忘れてしまったわけではない。
覚えている出来事もあれば、霧に包まれたように抜け落ちている出来事もある。そんな曖昧な状態だった。
「最近の出来事で覚えてることって何だ?」
フィルが静かに尋ねる。
ルーンは少し考え込むように顎へ手を添えた。
「そうね……」
視線を落とし、記憶を辿る。
「最近で覚えているのは……貴方に謝ろうと思っていたことかしら。でも、どう謝ればいいのかわからなくて……広場で一人、考え事をしていたの。……そしたら」
「カフルエルに会った?」
「! ……ええ。会ったわ」
フィルが言うと、ルーンは目を見開いてゆっくりと頷く。
だが、そこから先が思い出せなかった。何を話したのか。何をされたのか。その部分だけが綺麗に切り取られたように存在しない。
「無理しなくていい」
必死に思い出そうと眉を寄せるルーンへ、フィルは静かに首を振った。
優しくそう告げられ、彼女は小さく息を吐く。
「カフルエルは……どうして私に会いに来たのかしら」
「んー……」
フィルも腕を組み、考え込む。
答えは出ない。
どうしてカフルエルはルーンの体へ花の種を植え付けたのか。
目的がわからない。何を企んでいるのか。
「……………」
フィルの視線は自然とルーンの胸元へ向く。そこに揺れるエーの力が宿った銀色のロケットペンダント。ルーンが元に戻れたのは、その力のおかげだ。
しかし、それは花を消したわけではない。花は今も彼女の体内に残っている。たぶん、今は眠っているだけだ。再び目覚めれば、また彼女は花に支配されるかもしれない。
「(もしそうなったら……)」
そんな不安が胸をよぎり、フィルはそっと眉をひそめた。
「……ひっく」
そこで、しゃくり上げる声が静かな図書室に響く。
ルーンが振り向くと、涙を拭ったマキノがゆっくりと顔を上げていた。
「マキノ、大丈夫?」
優しく問いかける。
マキノはこくりと頷いた。
彼女が泣いている間、ブルーテイルはずっと肩へ寄り添い、小さな頭を何度も擦りつけていた。
「きゅう……」
「ぐすっ……ありがとう、きつねくん。もう平気だから」
頭を撫でられたブルーテイルは嬉しそうに鳴き、一度高く跳ねて床へ降り立つ。
「ごめんね、ルーンちゃん。いきなり抱きついて」
「いいえ。気にしてないわ」
「私、本当に心配したの。さっきまでのルーンちゃん……あの日のお父さんと、凄くよく似てたから……」
「マキノのお父さん?」
ルーンは穏やかに微笑み、マキノは震える声で続ける。
頰に流れる涙を拭いながらそう言った彼女にルーンは不思議そうに首を傾げた。だが、それ以上何も答えずマキノは唇を結ぶ。その瞳には思い出したくない記憶が映っているようだった。
「……それじゃ、マキノも泣き止んだし、そろそろ行こう」
重くなりかけた空気を切り替えるように、フィルが立ち上がる。
図書室には穏やかな空気が戻っていたが、戦いは終わっていない。離れた場所では依千蔵たちが黒い花の煙を浴びた生徒たちと戦い続けているのだ。こんなところで自分たちだけ立ち止まっているわけにはいかない。
「これからどうするの?」
フィルに続いてルーンも立ち上がり、マキノも慌てて腰を上げる。
「たぶん、依千蔵たちがまだ戦ってるはずだ。戻らないと」
「依千蔵たちが……。…わかったわ」
ルーンが尋ね、静かに頷く。
そのやり取りを聞き、マキノは不安そうに二人を見つめた。
「ルーンちゃん…」
ルーンはそんな彼女へ優しく視線を向ける。
「……マキノ。貴女はこのまま避難して」
「え?」
「これ以上、貴女を巻き込めないわ」
「っ、それならルーンちゃんも一緒に行こうよ!フィルさんも!」
「……悪いけど、私たちは行けないわ。この学び舎で起きていることは私たちに関係があるの」
マキノは首を大きく振る。
その願いに、ルーンは静かに微笑んだ。その声には迷いがなく、フィルと視線を合わせる。
「……だから、私たちが終わらせないと」
「きゅうっ!」
ブルーテイルがぴょんと跳び上がり、フィルの肩へ乗る。
「でも……」
マキノは二人の顔を何度も見つめた。
引き止めたい。一緒に逃げてほしい。そんな想いが胸いっぱいに溢れている。
しかし、ルーンの穏やかな笑顔を見た瞬間、その言葉は喉の奥で止まってしまった。
再び涙が頬を伝う。
「ごめんなさい、マキノ。……ありがとう。安全なところで待ってて」
ルーンは優しく微笑む。
「……行こう」
「ええ」
そしてルーンとフィルは二人は並んで歩き出した。
壊れた図書室を後にし、静かに出口へ向かう。
その背中を見送ることしかできないマキノは、唇を噛み締めながら頬を流れる涙をそっと拭った。




