助け
「…………だれ?」
桃華はかすれた声でぽつりと呟いた。
目の前に浮かぶ青い龍は、その声に応えるようにゆっくりと視線を彼女へ向ける。
「!」
澄み渡る蒼い瞳。
その眼差しと目が合った瞬間、桃華の胸がどくりと大きく脈打った。
初めて会うはずなのに、どこか懐かしい。
桃華はゆっくりと立ち上がり、胸元へそっと手を添える。
「グオオオオオォッ!!」
次の瞬間、青い龍の咆哮が廊下中を震わせた。水の波紋のような力が一気に広がる。
その声を耳にした途端、黒い煙を浴びて暴れていた生徒たちの動きがぴたりと止まった。首を絞めていた者も襲い掛かろうとしていた者も、その場で静止する。
「あれは……?」
フィルが龍を見つめながら呟く。
「兄ちゃん……」
依千蔵はぽつりと漏らした。
その時。
「きゅうっ!」
甲高く可愛らしい鳴き声が周囲に響く。
振り向くと、小さな青い影が一直線に駆けてきて胸に飛び込んでくる。
「ブルーテイル!」
胸へ飛び込んできたブルーテイルを、フィルはしっかりと抱き留めた。
「きゅうっ、きゅうっ!」
異変を察知し、鞄から飛び出してきたのだろう。ブルーテイルは心配そうに何度も鳴きながらフィルの胸へ体を擦り寄せた。
「心配かけたな」
フィルが優しく頭を撫でると、その後ろから百虎と玄武も駆け寄ってくる。
すると再び声が響いた。
「フィルくん!みんな!」
階段の方を見ると、二人の女性がこちらへ走ってくる。
一人はエー。そしてもう一人は朱咲だった。
「エーさん!朱咲さん!」
二人が近づいてくると、フィルたちは安堵したようにその名を呼ぶ。
エーは足を止めると、静まり返った廊下を見渡した。
動きを止めた生徒たち。
異変を免れた生徒たちはすでに各教室へ避難しており、廊下には重苦しい静寂だけが残っている。
「もうこんなに……っ」
エーの表情が痛ましげに歪む。
朱咲は桃華のもとへ駆け寄り、声を掛けた。
「大丈夫?」
「朱咲さん……」
その姿を見た途端、張り詰めていた緊張が少しだけほどける。
安心した反動で足元がふらつき、倒れそうになった瞬間、青い龍が静かに尾を動かした。長くしなやかな尾が桃華の体を優しく支える。
「……!」
引き寄せられた桃華の肩が、水の膜に包まれている龍の体にそっと触れた。
冷たさはなく、そこには包み込まれるような穏やかな温もりだけがある。
まるで清龍に優しく抱き締められているような安心感に、桃華は自然と目を閉じた。
「…………」
青い龍……清龍は静かに目を細め、その様子を優しく見つめる。
その穏やかな表情に、朱咲も思わず微笑んだ。
「フィルくん。ルーンちゃんは?」
「ルーンは、多分図書室に。オレと桃華は、さっきまでそこへ向かう途中だったんです。でも、その途中でこんなことになって……」
フィルは辺りを見回す。
暴れる生徒たちは止まったものの、床一面に咲く黒い花は今なお黒煙を吐き続けていた。
エーは静かに前へ出て、黒い花を結界で包み込んでいく。他の花々も次々と結界の中に閉じ込められた。
「そいつらの動きは止めたが、長くは保たない。花を取り出すなら今だ」
清龍が低く口を開く。
エーは静かに頷き、改めて生徒たちを見渡した。
一人。二人。三人。
視界に入るだけでも数十人。
これほど多くの人が"呪い"に侵された。
「…………」
エーは小さく息を吸い込む。
「…大丈夫。すぐに元に戻してあげるから」
その声は静かでありながら、確かな強さを帯びていた。
呪文を紡ぐと、足元の魔法陣がさらに輝きを増す。
ふわり。と、柔らかな光を放つ翼が背中から舞い広がる。衣装もまた光に包まれ、水面のように揺らめく青白いドレスへと変わっていった。
透き通る羽衣が肩から流れ落ち、耳元では青いイヤリングが静かに煌めく。
幻想的な姿へ変わったエーは、フィルへ向き直った。
「フィルくん。ここは私たちに任せて、貴方はルーンちゃんのところへ」
「え?」
エーはフィルの右手へ視線を落とす。そこにあるはずの銀色の輪は、もうなかった。
一瞬だけ表情を曇らせたものの彼女は何も言わず、魔法陣で出現させた小さな銀色のロケットペンダントを彼の手へ乗せる。
「これは……?」
「このペンダントをルーンちゃんに渡して。この中には、私の力を宿した羽根が入っているの。これがあれば、ルーンちゃんの中にある黒い花の侵食を少しの間だけ抑えられるかもしれない」
フィルは目を見開いてペンダントを見つめる。
その小さな重みが、大きな希望に感じられた。
ぎゅっと握り締める。
「……わかりました。ここはお願いします」
「きゅうっ!」
ブルーテイルも力強く鳴く。
まるで「ボクも一緒に行く!」と言っているようだった。
フィルは小さく笑みを浮かべて頷く。
「ああ。一緒に行こう」
「きゅう!」
そう言うと、フィルはブルーテイルを連れて図書室へ向かって走り出した。
その背中を見送りながら、エーは静かに目を閉じる。息を吐いて"呪われた者たち"を見据えた。
「う、うぅ……」
「怖い……怖いよ……」
「憎い……憎いぃぃ……」
動きを止めた生徒たちの苦しげな呻き声が耳へ届く。
依千蔵と朱咲はエーの前へ並び立ち、彼女を守るように構えた。百虎と玄武も足元で身構え、鋭く周囲を警戒する。
「これだけの人数だと少し時間が掛かるかもしれない。それまでよろしくね」
エーが穏やかに言う。
朱咲は小さく笑みを浮かべ、隣の依千蔵へ視線を向けた。
「任せて。……頑張れるわよね、依千蔵?」
「当たり前だ」
依千蔵は眉をひそめたまま前を見つめる。
「ガキだと思って甘く見るなよ」
その言葉に朱咲も力強く頷いた。
それぞれが覚悟を胸に、迫り来る脅威へ向き直る。
廊下にはなお黒い煙が漂っていたが、その中心には決して揺らぐことのない決意が確かに灯っていた。




