パニック!
図書室へ向かう廊下は、昼休みとは思えないほど騒がしかった。
遠くから聞こえてくる慌ただしい足音と悲鳴に、フィルはぴたりと足を止める。
「……なんだ?」
すぐ後ろを走っていた桃華も不安そうに辺りを見回した。
「何かあったのかな……?」
階段の方から大勢の生徒たちが雪崩れ込むように駆け上がってくる。誰もが青ざめた表情で、後ろを何度も振り返りながら必死に逃げていた。
「桃華」
フィルはとっさに桃華の腕を引いて、二人は廊下の端へ身を寄せる。
生徒たちは悲鳴を上げながら目の前を駆け抜け、その異様な光景にフィルと桃華は顔を見合わせた。
「桃華姉ちゃん!フィル!」
聞き慣れた声が響く。
生徒たちの隙間を縫うように、依千蔵が階段を駆け上がってきた。二人を見つけると、人混みを掻き分けながら一直線に近寄ってくる。
「依千蔵くん!」
「これ、何の騒ぎだ?」
フィルが問い掛ける。
依千蔵は肩で息をしながら深く息を吐き、正門で起きた出来事を手短に話し始めた。
黒い花。煙を浴びた女子生徒。
その生徒が突然豹変し、教師に襲い掛かったこと。
話を聞くにつれ、フィルと桃華の表情は強張る。
「…………」
脳裏にシエルの姿が浮かぶ。
"何か"が起こり始めた。
フィルは無意識に拳を握り締める。
「っ……!」
「痛っ、」
その時、右手に鋭い痛みが走った。ほぼ同時に桃華も左手を押さえて顔をしかめ、二人は顔を見合わせる。
見ると、刻印が小刻みに震えていた。
「うわあああっ!!」
廊下いっぱいに悲鳴が響き渡る。
反射的に顔を上げると、逃げ惑っていた生徒たちが一斉に立ち止まっていて、ある一点を見つめていた。
その視線を追うと、そこには男子生徒が別の男子生徒の首を両手で締め上げている姿が。
「っ、てめ……なんの真似……っ!」
「お前が……全部お前がっ!お前のせいで俺は!俺はぁ!!」
鬼気迫る叫びが廊下に響く。
「何!?」
「止めるぞ!」
フィルたちは迷わず駆け出した。
床を蹴る音が響く。依千蔵は勢いよく跳び上がり、そのまま首を締めていた男子生徒の顔面へ容赦なく蹴りを叩き込んだ。
男子生徒の体が吹き飛び、解放された男子生徒はその場に崩れ落ちて激しく咳き込む。
「ごほっ、ごほっ!」
「大丈夫?」
「くそっ……なんなんだ、あいつ……!」
桃華がしゃがみ込み、心配そうに顔を覗き込んだ。
「容赦なく蹴ったけど、あれ大丈夫か?」
「さあな。たぶん大丈夫だろ」
フィルが苦笑混じりに尋ねると、依千蔵は肩を竦めた。二人は桃華たちを庇うように前へ出る。
数メートル先へ吹き飛ばされた男子生徒が、ゆっくりと体を起こした。
ふらり。まるで糸で操られる人形のような動きで立ち上がる。その瞳は不気味な赤色に染まっていた。
さらに足元では黒い花が床を突き破るように咲き始め、ざわざわと揺れながら黒い煙を吐き出していく。
「……!」
煙は瞬く間に狭い廊下へ広がっていく。
視界が黒く霞み、生徒たちのざわめきが大きくなった。
「やばい!この煙を吸うな!!」
依千蔵はとっさに制服の袖で口元を覆う。先ほど正門で見た光景が頭をよぎる。
女子生徒は、この煙を浴びた直後にまるで別人のようになってしまった。
フィルもすぐに口元を押さえ、生徒たちへ叫ぶ。
「みんな逃げろ!」
しかし。
「きゃああ!!」
「わあああ!!」
時は既に遅かった。
煙を浴びた何人かの生徒たちが、そのまま近くにいた生徒へ襲い掛かる。
廊下は一瞬で阿鼻叫喚となった。
逃げ惑う者。助けを求める者。
逃げ遅れた者は次々と捕まり、殴られたり首を締められていく。
「きゃああっ!」
周囲が混乱に陥る中、桃華の悲鳴が聞こえた。振り向くと、首を絞められていた男子生徒が桃華へ飛び掛かり、その首を掴んでいる。
「桃華姉ちゃん!」
依千蔵は目を見開き、駆け出そうとした。だが。
「依千蔵!」
「!?」
フィルの叫びと同時に依千蔵の制服が背後から掴まれ、そのまま勢いよく投げ飛ばされる。
さらにフィルにも煙を浴びた生徒たちが一斉に襲い掛かってきた。
「っ……!」
これでは、桃華のもとへ向かうことができない。
「ぐ……っ、ぁ……」
桃華の首が強く締め上げられる。
息ができない。
必死にもがき男子生徒の腕を引き剥がそうとするが、その腕は岩のようにびくともしない。
むしろさらに力が込められていく。
「っ……」
視界が揺れる。肺が悲鳴を上げる。
このままでは殺されてしまう。
桃華は苦しげに目を閉じた。
「せ……い……」
掠れた声が漏れる。
腕から力が抜け、左手の甲に刻まれた刻印が激しく疼いた。
ずきり、ずきりと脈打つ痛み。
やがて限界を迎えた桃華の手は男子生徒の腕から力なく滑り落ちた。
その瞬間、一陣の風が廊下を駆け抜ける。
激しい轟音と共に男子生徒の体が何かに弾き飛ばされ、桃華の上から引き剥がされた。
「ごほっ……!ごほ、ごほっ!」
一気に空気が肺へ流れ込む。
桃華は床へ手をつき、激しく咳き込みながら息を整えた。
誰かが助けてくれた。ゆっくりと顔を上げる。
「……!」
そこにいたのは、一頭の青い龍だった。
澄み切った水流をその身に纏い、空中へ静かに浮かんでいる。
長い体をうねらせながら桃華の前へ立ち、その鋭い眼光は男子生徒を真っ直ぐ射抜いていた。
「っ、」
桃華は息を呑み、その神秘的な姿をただただ見つめた。




