人じゃなければ
防壁を前に、重苦しい沈黙が流れる。
その静寂を破るように、エーがふと口を開いた。
「人間じゃなければ通れる……。なら、ターナさんも通れるはずでは?」
「ん?」
「さっき言ってましたよね。『私は最初から人間じゃなかった』って。だったら、ターナさんもこの防壁を通れるんじゃ……」
ターナは視線だけを向ける。
もっともな疑問だった。
しかしターナは防壁へ背中を預け、腕を組むと肩をすくめる。
「まぁ、その理屈で言えば私もこの壁は通れる」
一拍置いて、苦々しく笑った。
「だが、私は通れないんだよ。事情があってな」
小さく舌打ちし、息を吐く。
「事情……ですか?」
「悪いが、それ以上は話せない」
それきり口を閉ざした。
エーもそれ以上追及することのはやめる。
「……人間じゃなくなればいいんだな」
「は?」
ぽつりと清龍が呟くと、ターナが怪訝そうに眉をひそめた。
清龍は何も答えずに一歩前へ出て、足元に青白い魔法陣を展開させる。
古い言葉で紡がれた呪文が静かに周囲に響き始めると、眩い光が彼の身体を包み込んだ。光は次第に強さを増し、人の輪郭を飲み込んでいく。
やがて光が消えると、そこに立っていたのは、
「清龍さん……!その姿……!」
長くしなやかな青い龍だった。
全身を清らかな水が流れるようにまとい、その鱗は陽光を受けて青く輝いている。
空中で優雅に身をくねらせると、低く唸り声を響かせた。
エーは驚きに目を見開く。
「なるべく、この姿にはなりたくなかったんだがな」
龍となった清龍は静かに答えた。
「緊急事態だ。仕方ない」
そう言うや否や、迷いなく防壁へ向かって飛び出す。その巨体なら激突は避けられない。
しかし。防壁に触れた瞬間、その身体は水へ溶け込むようにすっと壁の中へ消えていった。
透明な壁には水面のような波紋だけが広がり、すぐに静まる。
「はっ。あいつ、あんな芸当まで出来たのか」
ターナは思わず笑みをこぼし、感心したように腕を組み直した。
清龍が聖獣の一柱であり、人の姿は仮初めのものだということは知っていた。それでも今の光景は予想以上で、エーは難しい顔のまま荷物袋へ手を伸ばす。
取り出したのは、小さな透明のビー玉。
掌に乗せ、じっと見つめた。
「ん?何だ、それは?」
ターナは首を傾げる。
「これは……ただのビー玉です」
「そんなもん出して何しようってんだ?まさか、それでこの壁をぶち抜くとか?」
「まさか。さすがにこれじゃ壊せませんよ」
エーは苦笑し、そう言いながらビー玉を大切そうに撫でる。
「……でも、これを使えば私も防壁を通れるんじゃないかって思って」
「何?」
ターナが目を細める。
「それは、お前もあいつみたいに人間じゃなくなれるってことか?」
「まぁ……はい」
少し言い淀みながら頷く。
「でも、これだけじゃ駄目なんです」
「なんだ。まだ何か要るのか?」
「はい。これと、もう一つ。鏡が必要なんです」
「鏡?」
「その鏡はヴィーが持ってるんですよ。だから今は使えませんね」
エーは笑い、眉尻を下げる。
困ったような表情を見せるも、彼女は軽い口調で「残念だなー」と呟いた。
「俺が何だって?」
その時、聞き慣れた声が背後から飛んでくる。
「!」
振り返ると、そこにはヴィーと朱咲が立っていた。
「(……なんてタイミング)」
心の中でそう呟きながら、エーは複雑な表情を浮かべる。
「……何だ?」
悲しそうな顔で見つめられ、ヴィーは眉をひそめた。
「はぁ」
「人の顔見て溜め息吐くな。…んで、今はどんな状況?」
「あー、…うん」
エーは事情を一から説明する。
一通り聞き終えると、ヴィーは腕を組んだ。
隣では朱咲が防壁へ触れ、興味深そうに観察している。
「なるほどな。理解した」
「それで、ヴィーはどうしてここに来たの?今、忙しかったんじゃ……」
「そっちが何か大変そうだったからな。さっさと終わらせてきた。そのおかげで朱咲には無理させちまったけど」
「私は平気よ。おかげですっきりしたもの」
「無理させた……?」
そう答えたあと、朱咲は胸へ手を当てて微笑む。それを聞いたエーはじとりとした視線をヴィーへ向けた。
「安心しろ。お前が考えてるようなことはしてねぇよ」
「!」
「…安心したか?」
ヴィーはその反応を見て、口元を緩ませる。
意地悪く笑われ、エーの頬がみるみる赤くなった。
「っ……べ、別に……」
慌てて視線を逸らす彼女の姿にヴィーは満足し、防壁へ目を向ける。
「…ええと。つまり、この壁を通るには人間じゃなくなるしかねぇって話か」
「ああ」
ターナが頷く。
「清龍はもう龍になって中へ入った」
「……それで、私もその方法なら通れるかなって」
「へぇ。なら、俺が来たのはちょうど良かったわけだ」
エーがビー玉を握りしめるのを見て、ヴィーは懐へ手を入れる。
取り出したのは、小さな手鏡。
それをエーへ差し出すと、受け取った彼女は眉尻を下げて笑みを浮かべた。
「ありがとう……」
その方法を使うのは彼女にとってはあまり良くないものらしい。ヴィーはそれをよく知っていた。
頭に手を置いて、ポンと軽く叩くとエーは彼を見つめる。
「それじゃ、私はここで留守番か。歯痒いな」
「内側から防壁を壊せるようなら、すぐにそうします」
そして、エーは真剣な表情で答えた。
「私も行くわ。この場所には、いつもお世話になっているもの」
朱咲が一歩前へ出る。
エーは静かに頷いた。
二人は防壁の前へ並び立つ。
エーは鏡を地面へ置き、その前にビー玉をそっと置いた。足元に魔法陣を展開させる。
朱咲の足元にも、別の魔法陣が淡く輝いた。
二人はそれぞれ呪文を唱える。
光が彼女たちの体を優しく包み込み、その輪郭を少しずつ塗り替えていった。
眩い光が辺りを満たしてやがて静かにそれが消えた時、そこに立っていたのは人ではなく、綺麗な赤い羽根を持つ鳥と白くて丸い小さな生き物だった。




