異変前の朝
翌朝。
目を覚ましたフィルは、いつもより少し早く制服へ着替えると、そのまま客間へ向かう。障子を開けて中に入ると、そこにはすでに皆が集まっていた。
しかし普段の賑やかな朝とはまるで違い、シオンもターナも、皆もそれぞれ神妙な面持ちで席についている。
食卓には朝食が並んでいるというのに、まるで作戦会議でも始まりそうな空気だった。フィルは黙って自分の席へ腰を下ろす。周囲を見渡してみるが、そこにルーンの姿はない。
目の前に置かれた茶碗を手に取り、箸を伸ばしながら彼は口を開いた。
「………ルーンは?」
「朝一番に出てった」
聞くと、依千蔵が味噌汁を啜りながら答える。
「制服は着てかなかったからすぐに帰ってくるだろうよ」
「そっか……」
それ以上言葉は続かなかった。
カチャカチャ、と食器の触れ合う音だけが客間に響く。
今日はシエルが言っていた『一週間後』の日。誰もがそれを意識しているのは明白だった。
緊張するのも当然。だが、これではせっかくの朝食の味もよく分からない。
「…………」
フィルは箸を動かしながら、昨日のルーンの姿を思い出す。
赤く染まった瞳。笑った顔。
いつもの彼女とはまるで別人だった。
「…………」
向かいに座るシオンと、テーブルの端にいるターナへ視線を移す。二人も同じ赤い瞳を持っている。だが彼らの瞳には嫌な感じはない。
それなのに昨日のルーンのあの瞳は背筋を冷たい指でなぞられるような、不吉な感覚があった。
「(……ルーン)」
フィルは自分の右手を見つめる。
シエルと同じ、冷たく赤い瞳。
二年前。久しぶりに彼女と再会した時に感じた胸の痛みが蘇った。
刻印が反応し、嫌でも分かってしまう。
「………っ」
唇を噛み締める。
自分はまた大切な人を失うのではないか。
そんな恐怖が胸の奥で少しずつ膨らんでいった。
ガラッ!
その時、玄関の引き戸が勢いよく開かれる音が響く。続いて慌ただしい足音。
そして、
「お邪魔します!」
という大きな声が客間まで飛び込んできて、数秒後、誰かが姿を現した。エーだ。
ここまで全力で走ってきたのだろう。彼女は肩で大きく息をしながらそこに立っている。
「…って、お食事中だった?」
「エーか。どうした、こんな朝から」
ターナが焼き魚を頬張りながら尋ねる。
エーは返事をする前に客間を見渡した。何かを探すように視線を巡らせる。
「……ルーンちゃんは?」
「あいつなら出掛けてますよ」
依千蔵が答えた。
「すぐに帰ってくるかと思いますが」
「出掛けた!?」
その言葉を聞いた瞬間、エーの顔色が変わる。
目を見開き、思わず声を上げた。
「ちょっと!何で引き止めないの!?」
「は?」
依千蔵が眉をひそめる。
エーはすぐに我に返り、頭を抱えながら深く息を吐いた。
「あっ、ごめん。……はぁ。落ち着け、私」
何度か深呼吸を繰り返し、自分を落ち着かせる。その様子を見ていたフィルたちは首を傾げた。
しばらくして気持ちを整理したエーは小さく頷く。
「よしっ」
改めて顔を上げ、シオンの方に顔を向けた。
「とりあえず、まずは……シオンくん」
「?」
「それとフィルくんと……ブルーちゃんもこっちに」
「え?」
呼ばれた二人は箸を置いて立ち上がる。
ホワイトの隣にいたブルーテイルも、ちょこちょこと小さな足で歩き出した。フィルの肩へ飛び乗り、小さく鳴き声をあげる。
全員が近づいてきたのを確認すると、エーは真剣な表情になった。
「何かわかったか?」
腕を組んだシオンが尋ねる。
エーは無言で頷き、腰に下げた荷物袋へ手を伸ばす。
取り出したのは掌に収まるほどの透明な箱。数日前、シオンから預かったものだ。
箱の中には種が一つ。
それと――
「……?」
フィルは目を瞬かせる。
種の隣で、小さな黒い人型の何かが飛び跳ねていた。
それはシオンたちに気付くと、両腕を目いっぱい広げて元気よく跳ねる。
「………何これ?」
フィルが率直な感想を漏らす。
エーは少しだけ笑い、箱の蓋を魔法で開くと中の存在をそっと掌へ乗せた。
「この子はクロコ。私の頼もしい相棒の一人だよ」
優しく紹介すると、クロコは掌の上でもぴょんぴょん跳ね続ける。
まるで自分を見てほしいと言わんばかりだ。だが勢い余って足をもつれさせ、小さな音を立てて尻もちをつく。
「きゅう?」
フィルの肩からブルーテイルが身を乗り出す。
じっと見つめられたクロコは慌てて起き上がり、両手で顔と思われる場所を覆った。
どうやら転んだところを見られて恥ずかしかったらしい。
「……ふふ」
エーの口元が緩む。
「………」
フィルは、サクヤに預けている精霊のことを思い出す。目の前にいるクロコと同じく白くて小さな人型の不思議な生き物。
そっと指を伸ばして触れてみる。クロコはくすぐったそうに身をよじった。この黒いのも精霊のような存在なのだろうか。
そんなことを考えていると、エーが表情を引き締める。
「この子と一緒に、シオンくんに頼まれていたことを調べたの」
三人の間で空気が変わる。
シオンもフィルも口を開かず、エーは息を吸い込んだ。
「そしたら……」
言葉を途切れさせ、再び深呼吸をする。そして覚悟を決めたように彼女は続けた。
「……やっぱり、ルーンちゃんの体内には"花"の存在があったわ」
静かな声。
シオンの眉が険しくひそめられる。
「……確定か」
「ええ」
エーはゆっくりと頷く。
掌の上のクロコも先程までの陽気さを消して、箱の中の種をじっと見つめた。




