私と貴方なら
その夜。
家の客間に面した縁側には、静かな月明かりが降り注いでいた。ルーンは一人、縁側に腰を下ろして夜空に浮かぶ白い月を見上げる。
「…………」
虫の鳴き声が遠くから聞こえ、彼女は小さく息を吐く。その手には一本の鍵。昼間、修介から取り上げた図書室の秘密の部屋の鍵だった。
月光を受けて鈍く輝くそれを見つめながら、ルーンは考える。
修介には処分すると言った。
けれど、本当にそうするべきなのだろうか。
あの部屋。司書の女性と教師以外に誰にも開かれることのない図書室の奥の部屋。もしこの鍵を使ってそこに入れば、私の知らないダークエルフのことがすべてではないにしろわかるかもしれない。
確かな根拠はない。けれど、そんな気がした。
「ルーン?」
そこで、不意に声が聞こえる。
振り返ると、フィルが立っていた。
片手には水の入ったコップが握られ、縁側まで歩いてくると彼はルーンの隣へ腰を下ろす。
「眠れないのか?」
「……ええ。少しね。貴方は?」
「オレは、喉が渇いたから水を取りに」
「そう」
ルーンはコップとフィルの顔を交互に見たあと、再び空を見上げた。
涼しい夜風が髪を揺らしていく。
しばらく沈黙が続き、やがてフィルの視線が彼女の手元へ向いた。
「それ、何の鍵だ?」
「……さあ。わからないわ」
ルーンは一瞬だけ目を細める。
何気ない口調だった。
「帰りに拾ったのよ。きっと誰かの落とし物ね」
「そのまま持ってきたのか?落とした人、困ってそうだな……」
「家の扉を開ける鍵とかだったら最悪ね」
「確かに。……それ、どうするんだ?」
「仕方ないから、明日奉行所に届けてくるわ。面倒だけど」
「オレもついていこうか?」
「大丈夫よ。子供じゃないんだし、一人で行けるわ」
ルーンは肩をすくめてそう言い、鍵をスカートのポケットへしまう。
「そうか」
フィルは頷く。
すると、ルーンは彼の持つコップへ目を向けた。
「……私も少し喉が渇いたわね。その水、貰えるかしら?」
「ん?」
言うが早いか。ルーンは手を伸ばし、半ば強引にフィルからコップを奪い取った。そして自然な動作で水を飲み始める。
その行動にフィルはぽかんと目を丸くし、半分以上飲んだところでルーンは口を離した。
「……何?」
「あ、いや……」
不思議そうに首を傾げるルーン。
フィルは言葉に詰まった。あまりにも迷いのない行動だったからだ。
彼はどこか落ち着かない気持ちのままコップを受け取る。当の本人は気にした様子もなく、再び夜空を見上げていた。
「…………」
残った水面を見つめる。
このまま飲むべきか。それともやめておくべきか。
どうでもいいようで妙に悩ましい問題だった。
「そういえば」
ふと、ルーンが口を開く。
「明日で一週間ね」
「ん?」
「あの人が貴方のところへ来てから」
フィルはすぐに意味を理解した。
「ああ……」
シエルがフィルのもとに訪れてから一週間。
彼女が伝言を残して去ってから、明日でちょうど一週間になる。
予言のような言葉。
学び舎で何かが起こるという警告。
しかし結局、今日までその真意はわからないままだった。
「シエルたちは一体、何をするつもりなんだろうな」
「結局、今日まで答えは出なかったわね。……でも」
ルーンはそう言って立ち上がる。
裸足のまま縁側を降り、月光に照らされた庭へ歩き出した。草を踏む微かな音だけが夜に響く。
数歩進んだところで足を止め、振り返った。
「私と貴方なら平気よ」
「え?」
フィルは顔を上げる。
月明かりの中に立つルーンは、どこか幻想的に見えた。
「あの人たちが学び舎で何をしてこようと、あそこに私と貴方がいる限り最悪の事態にはならないわ」
彼女は穏やかに微笑む。
迷いのない声だった。
その自信に、フィルは思わず苦笑する。
「随分と強気だな」
「冗談なんかじゃないわ」
ルーンはゆっくり近づいてくる。
月光を受けた紫色の瞳が真っ直ぐ彼を見つめていた。
「私と貴方なら、たとえ何が起きても、きっと切り抜けられる。そんな気がするの」
「……ルーン?」
彼女は静かに言った。
フィルは戸惑う。
いつもの彼女とは少し違うような気がした。
「私は本気よ」
「ル……」
距離が近い。近すぎる。
次の瞬間。ルーンは不意に顔を寄せた。ほんの一瞬だけ、二人の距離が消える。
「!」
フィルは息を呑み、目を見開いた。
ルーンはすぐに離れ、指で唇を撫でながら満足そうに微笑む。
「……っ!」
その時突然、フィルの右手に鋭い痛みが走った。焼けるような激痛。思わず顔を歪める。
「な、に……!」
右手を押さえて刻印を見つめる。
ぶるぶると、それは異常なほどに震えていた。
次にそこに立つルーンを見た瞬間、彼の表情は凍りつく。
「っ、……ルーン?」
彼女の瞳。
いつもは澄んだ紫色のその瞳が、まるで血のように真っ赤に染まっていた。
夜風が吹く。木々がざわめく。
月明かりの下で妖しく輝くその赤い瞳を見つめながら、フィルは言葉を失った。




