届かなかった想い
王都アーバンを追放されてから数日後。
フィルは北の大陸南端にある港町へと辿り着いていた。
海風が吹き抜ける船着場。
停泊している大型船の前で、フィルは静かに乗船時間を待っていた。
荷物は少ない。王都を出る際に持ち出せた最低限の物だけだ。
故郷を失った十四歳の少年には、それしか残されていなかった。
ぼんやりと海を眺めていた、その時。
「フィル!」
聞き慣れた声が響く。
フィルははっとして振り返った。
そして目を見開く。
「シエル……!?」
人混みを掻き分けながら、一人の少女が駆けてくる。
肩で息をしながら、それでも必死に彼の元へ向かっていた。
ようやく目の前まで辿り着くと、シエルは荒い呼吸を整える。
「シエル、どうして…!」
「私も一緒に行く!」
「え?」
顔を上げて、シエルは言った。
突然の言葉に、フィルは呆然とする。
彼女は真っ直ぐ彼を見つめていた。迷いなど欠片もない瞳だ。
「フィルが兵士を殺したなんて、そんなの間違いだよ!」
「シエル、王都に戻って!」
フィルは慌てて周囲を見回した。
「こんなところ、もし王都の人に見られたら……」
「ここに王都の人なんていないよ」
シエルは首を横に振る。
そして少しだけ困ったように笑った。
「……私、お母さんに手紙を残してきたの」
「手紙?」
「うん。フィルと一緒に行きますって」
「!?」
その言葉にフィルは絶句した。
思いもよらない言葉だった。
「なんでそんなこと……」
困惑を隠せないフィルを見て、シエルは眉尻を下げる。
「私ね、フィルが王都を追放されたって聞いた時、すごく吃驚したの」
シエルは胸にそっと手を添える。
「それと同時に胸の奥が重くなって……すごく悲しくなった」
言葉を紡ぐたびに、その瞳が揺れる。
フィルがいなくなる。
自分の前から消えてしまう。
もう二度と会えないかもしれない。
そう考えただけで、胸が苦しくなった。
息が詰まりそうになった。
涙が止まらなくなった。
「私……」
震える声が漏れる。
「私、フィルが好き!」
「!」
その言葉に、フィルの身体が硬直した。
シエルの瞳から涙が零れ落ちる。
「貴方と離れたくない!」
涙を流しながら叫ぶ。
「だから、一緒に連れてって!」
海風が二人の間を吹き抜ける。
フィルは何も言えなかった。
ただ黙って、彼女を見つめる。
胸の奥が痛む。
自分も同じ気持ちだった。
ずっと前から自分も彼女が好きだった。
あの日、メイド試験に合格したと笑った彼女を見た時から。
「(でも……)」
けれど。
もう駄目なのだ。
右手を握り締める。
そこに刻まれた不吉な印が視界に入る。
この刻印がある限り、自分の人生に平穏はない。
誰かを巻き込むわけにはいかなかった。
大切な人ならなおさら。
「ありがとう、シエル」
フィルはゆっくりと笑みを作った。
声が少しだけ震える。
「……オレも君が好きだよ」
シエルの瞳が大きく開かれた。
涙に濡れた顔が歓喜に染まる。
だが次の言葉が、その表情を凍り付かせた。
「でも、君がオレを想う気持ちと、オレが君を想う気持ちは違う」
フィルは小さく首を振る。
まるで自分自身に言い聞かせるように。
「……違うんだ」
そして続ける。
「オレは兵士を殺した」
その事実は消えない。
たとえ真実がどうであろうと。
「君を連れて行けば、君までその罪を被ることになる」
「そんなの構わない!」
シエルは即座に叫んだ。
「貴方と一緒なら何だって耐えられるよ、私!」
その言葉にフィルは目を伏せる。
優しいからこそ言える言葉。
だからこそ受け入れられなかった。
「残念だけど、君を連れて行くことは出来ない」
静かに告げる。
シエルの肩が震えた。
「……ここでお別れだ」
その時、船員の声が港に響く。
乗船を知らせる合図だった。
フィルは足元に置いていた荷物袋を持ち上げる。
そして、シエルに背を向けた。
「フィル……!」
泣きそうな声。
必死に伸ばされた手。
けれどフィルは振り返らなかった。
振り返れば、決意が揺らぐ気がした。
数歩進み。
そして立ち止まる。
「……ごめん、シエル」
背中を向けたまま呟く。
「ここまで来てくれてありがとう」
短い沈黙。
「嬉しかったよ」
それだけを残して、フィルは船へ乗り込んだ。
やがて船はゆっくりと港を離れていく。
海面を割りながら進む船を、シエルは呆然と見つめていた。
呼び止める声も出ない。
伸ばした手も力なく下がる。
そして。
ぽろり、と。
大粒の涙が頬を伝った。
「……フィル…っ」
一粒。
また一粒。
止まることなく零れ落ちる。
遠ざかる船。
遠ざかる大切な人。
シエルは泣きながら、その姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
+
「ええと……だいたい、こんな感じ……かな」
話し終えたフィルは、どこか懐かしむように口元を緩めた。
気がつけば、学び舎の門が彼らを迎える。
隣に立つルーンは何も言わなかった。
フィルの過去。
シエルとの思い出。
その一つ一つが胸に重く沈んでいた。
フィルは右手を見つめる。
「シエルがどうしてあんな風になったのか、理由はわからない」
苦笑混じりに呟く。
「久しぶりに会った時、本当に驚いたよ」
視線を落としたまま続ける。
「髪色は変わってるし、目の色も違ってるし……」
そして、少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、一番驚いたのは、彼女が刻印を狙ってオレを殺しに来たことかな」
刻印を握り締める。
その声には隠しきれない痛みが滲んでいた。
「…………」
ルーンは黙って彼の横顔を見つめる。
胸の奥がずきりと痛んだ。
フィルの気持ちを思うと苦しい。
シエルの気持ちを思っても苦しい。
でも、それ以上に苦しいのは……。
「…………」
ルーンはフィルに気づかれないように小さく息を吐いた。
聞くべきではなかった。
そんな後悔が胸を締め付けた。




