伝言
夕食を終えた後。
フィルは重たい足取りで廊下を歩いていた。
食事の時間が終わったにもかかわらず、疲労感はまったく抜けていない。
その原因は言うまでもなくホワイトだった。
夕食中も彼の質問攻めは止まることがなく、ルーンの魔法による制止が入らなければ今も続いていただろう。
おかげで料理の味などほとんど覚えていない。
学び舎での勉学だけでも十分疲れていたというのに、その上さらに精神力まで削られてしまった。
「はぁ……」
自然とため息が漏れる。
今日はもう寝よう。
そう決めて、自室の襖を開けた。
部屋へ一歩踏み入り、後ろ手で襖を閉める。
「っ……!」
その瞬間、右手に鋭い痛みが走った。
フィルは思わず眉をひそめる。
視線を落とした先では、右手の刻印がいつも以上に小刻みに震えていた。
「何だ……?」
「随分とお疲れのようね、フィル」
「!」
困惑した直後、聞き覚えのある声が響く。
フィルは反射的に顔を上げた。
ベッドの上に腰掛けていた人物がゆっくりと立ち上がり、長い髪を揺らしながら穏やかな笑みを浮かべる。
その姿を見た瞬間、フィルの表情が強張った。
「シエル……っ!」
「こんばんは」
そこにいたのはシエルだった。
まるで友人に挨拶するような口調。
彼女は静かに歩み寄る。
フィルはすぐさま襖へ手を伸ばした。
だが、襖はまったく動かない。
「なっ……?」
力を込めても、ぴくりともしない。
「無駄よ。この部屋には貴方が入ってきた瞬間に結界を張ったから。私が解かない限り、貴方はここから出られないわ。ちなみに助けを呼ぼうとしても無駄。私と貴方の声は、この家の人たちには聞こえなくなっているから」
シエルは言う。
フィルは警戒を強めた。
「どうしてここに……?」
問い掛けると、シエルは小さく肩をすくめる。
「そんな怖い顔をしないで。今日は戦いに来たわけじゃないわ」
そう言いながら近づいてくる。
そして自然な仕草でフィルの身体へ寄り添った。
「……ああ、フィル」
どこか懐かしむような声。
「もうすっかり大人の体ね。成長する体って素晴らしいわ」
静かに伸ばされた手が右手へ触れる。
その瞬間、刻印が激しく震えた。
「っ!」
痛みが一気に増し、フィルは顔をしかめる。
「刻印も変わらず元気そう。……でも、前みたいに暴走はしないみたいね。もしかして受け入れたのかしら?」
シエルは刻印を見つめた。
しかしフィルは答えず、彼女の肩へ手を置いて静かに距離を取らせる。
「シエル、質問に答えてくれ。どうしてここにいるんだ?戦いに来たわけじゃないって、どういう……」
フィルは真っ直ぐシエルを見据えた。
「……そうね。ここの人たちは勘が良い人ばかりだから、早くしないと来てしまうわね」
少しだけ寂しそうな表情を浮かべたシエルだったが、そう言って息を吐く。
その時、部屋の外から大きな声が響いた。
「あら。言ったそばから」
「おい、フィル!そこにいるのか!返事をしろ!!」
聞こえてきたのはターナの声だった。
襖が激しく揺れ、フィルは振り向く。
「ターナさん!」
思わず声を上げる。
「無駄よ。言ったでしょう?」
シエルは首を横に振り、静かな声で言う。
「結界を破らない限り、外の人たちには私たちの声は聞こえない」
襖がさらに大きく震える。
ターナの怒声も聞こえてきた。
「……でも、彼女なら強引にでもこじ開けてきそうね」
シエルは苦笑する。
「時間もないようだし、単刀直入に伝えるわ。ボスからの伝言を」
「ボス?」
その表情に笑みが消えた。
「一週間後。貴方たちの通う学び舎で、ボスが何かをするみたいよ」
「は?」
静かに告げると、フィルは眉をひそめる。
「……何かって?」
「さあ?それは私にもわからないわ」
シエルはあっさり答えるが、次の言葉には迷いがなかった。
「だけど、その何かで学び舎では大変なことが起きる」
襖を叩く音がさらに激しくなる。
もはや壊れる寸前だった。
「フィル!開けろ!!」
ターナの怒鳴り声が響く。
シエルはちらりと襖を見た。
「……もう限界みたいね。私はそろそろ行くわ」
杖を取り出す。
杖の先が床を軽く叩き、コン、と小さな音が鳴った。
足元に魔法陣が広がる。
「シエル、待て!」
フィルは思わず叫んだ。
杖を掲げ、呪文を唱えれば淡い光が彼女の身体を包み込む。
そして最後に。彼女は優しく微笑んだ。
「それじゃあね」
その一言を残し、シエルの姿は光とともに消え去る。
同時に結界も消滅し、次の瞬間。
バンッ!と、勢いよく襖が開かれた。
「フィル!無事か!」
ターナが飛び込んでくる。
息を荒げながら部屋を見回し、腕を組んで険しい表情を浮かべた。
「ターナさん……」
「妙な気配がしたから飛んできた。何があった?」
フィルは少しだけ視線を伏せる。
シエルの言葉が頭の中で何度も繰り返された。
一週間後。学び舎で何かが起きる。
それが何なのかはわからない。
フィルは唇を結んだ。
「フィル」
「……」
そして、静かに首を横へ振る。
何も答えなかった。
答えられなかった。
ただ、右手の刻印だけが、かすかに熱を残していた。




