エーとヴィー
清龍の部屋を後にしたエーは、静かに廊下を歩いていた。
教会の中にはまだ重たい空気が残っている。
呪いの残穢は薄まりつつあるものの、完全に消えたわけではない。
壁の隙間から吹き込む風が冷たく感じられるのも、そのせいかもしれなかった。
しばらく進み、エーは別の部屋の前で足を止める。
コンコンと軽くノックをして、返事を待たずに扉を開いた。
「入るよ」
部屋の中では、一人の青年が本棚の近くに立って本を読んでいた。
ページをめくる手を止め、彼はエーの方へ視線を向けて掛けていた眼鏡を外す。
「……あいつは?」
短い問いに、エーは頷いた。
「大丈夫。目を覚ましたわ」
その言葉を聞き、青年…ヴィーは小さく息を吐く。
エーは近くのベッドへ腰を下ろすと、張り詰めていた緊張が解けたのか肩から力を抜いた。
そんな彼女の様子に気付いたヴィーは、本を閉じて歩み寄る。
「……平気か?」
「うん。力を使ったのはちょっとだから」
エーは顔を上げ、微笑んだ。
しかしその笑顔はどこか無理をしているようにも見え、ヴィーはしばらく彼女を見つめた後、深く息を吐く。
「ちょっとじゃねぇだろ」
呆れたような声。
そして軽く身を屈めると、彼女の額へそっと口づけを落とした。
「!」
突然のことに、エーは目を丸くする。
「…んな顔して、見え透いた嘘言うな」
彼は肩をすくめた。
「俺は別に気にしねぇから、いつでも頼れよ」
「……うん。ごめんね。私の悪い癖だね」
一瞬きょとんとした後、エーは困ったように笑って眉尻を下げた。
ヴィーもつられるように笑い、彼女の隣へ腰を下ろす。
「朱咲さんは?」
短い沈黙のあと、エーが尋ねた。
「今は大人しくしてる。けど、完全には除去できてないな」
「そう……」
「あいつら、この大陸を護ってる聖獣だろ?俺たちと同様に何かしらの加護があるはずなのに、何でそんな奴らが…」
「きっと、呪いの濃度が濃すぎたせいね」
エーは視線を落とした。
昨日の出来事を思い返す。
清龍と朱咲を蝕んだ呪い。
あれほどの影響を及ぼす存在はそう多くない。
「それほどまでに、"彼"の体に巣食った呪いは強力ってことか」
顎に手を添えて、ぽつりと呟く。
そしてその後、自然とヴィーの肩へ身体を預けた。
手を伸ばし、その手を握る。
指先が触れ合うと、少しだけ安心したように目を閉じた。
「……何だ?」
「頼れって言ったでしょ。だから頼ってるの」
ヴィーは横目で彼女を見て、エーは目を閉じたまま答える。
「頼れってそういう意味じゃねぇんだけど」
ヴィーは苦笑するが、手を振り払うことはしない。
「……あんまりそういうことすると襲い掛かるぞ」
「別にいいよ。貴方なら」
エーは静かに言うと、ヴィーは思わず言葉を失った。
彼女は今にも眠ってしまいそうな顔をしている。悪気などまるでないのだろう。
「馬鹿言うな。冗談だよ」
視線を落とす。
そこで目に入ったのは、エーの胸元で揺れる金色の指輪だった。
長い年月を経ても大切にされているそれ。
かつて婚約者だった男性から贈られた約束の証。
未来を誓い合った証だ。
だが、その未来は訪れることはなく彼は世界と共に失われてしまった。
「まぁ、そうした方が回復は早いけど、そんなことしたら殺されかねないからな」
「そんなことないと思うけど?」
「お前も知ってるだろ」
立ち上がり、肩をすくめる。
「人間ってのは死んだ後でも人を呪える生き物なんだよ」
握っていた手が離れ、エーは少しだけ残念そうに瞬きをした。
「俺はこれ以上呪われたくない」
冗談めかした口調。
だが、その奥には別の感情も隠れているようだった。
ヴィーは、そのまま扉へ向かう。
教会の浄化作業はまだ終わっていない。
残穢はまだ至るところに残されている。
「休憩は終わりだ。仕事に戻るぞ」
ドアノブに手を掛け、そう言い残し部屋を後にした。
扉が閉まる音が響く。
静寂が訪れ、エーはその背中が消えた扉をしばらく見つめていた。
「…………」
やがて首元へ手を伸ばす。
そこに下がるペンダントを指先でそっと握った。
懐かしい記憶が胸をよぎる。
「……彼だって」
小さく呟く。
誰に向けるでもない声。
「貴方が相手なら、きっと許してくれるよ」
その言葉は窓から吹き込んだ風で静かに部屋の中に消えた。




