教会跡地にて
村を離れた清龍は、夜の闇に沈む教会跡地へと足を運んだ。
風は冷たく、草木を揺らす音だけが静かに響いている。
「朱咲!」
呼びかけると、教会の前に立っていた女性がゆっくりと振り返った。
番傘を差した朱咲は、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。
「こんばんは、清龍」
短い挨拶を交わした後、清龍はすぐに教会へ視線を向けた。
「……ここか?」
問いかけに、朱咲も古びた建物を見上げる。
月明かりに照らされた教会は、もはや廃墟と呼ぶに相応しい姿だった。壁には無数の亀裂が走り、屋根はところどころ崩れ落ちている。
「ええ」
「刻印絡みか?」
「わからないわ。ただ、似たような気配がこの中を漂ってる」
その言葉を聞き、清龍は無言で敷地へ踏み込んだ。
壊れかけた扉の前に立つ。
錆びついたドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開くと、甲高い軋みが夜の静寂を裂いた。
同時に、長年積もっていた埃が舞い上がる。
清龍は目を細め、そのまま中へ足を踏み入れた。途端に、肌を刺すような禍々しい気配が全身を包む。
腰に差した刀へ手を添え、眉をひそめて警戒を強めながら周囲を見渡した。
朽ちた長椅子。砕けた窓ガラス。
半分以上欠け落ちたステンドグラス。
どこを見ても荒廃の痕跡しかない。
それでも、気配は確かに存在していた。
一歩ずつ慎重に進み、祭壇跡の近くまで辿り着く。
視界の端には一枚の扉が見えた。
どうやら気配の源はその奥らしい。
「(あそこか……)」
清龍は、その扉のもとへ向かおうとした。
その時、背中に小さな衝撃が走る。
「!」
反射的に振り返ると、朱咲がぴたりと背中へ身を寄せていた。
両腕が清龍の身体へ回される。
「……何の真似だ?」
問いかけても返事はない。
静寂だけが流れる。
「……朱咲」
名前を呼ぶと、ようやく彼女は口を開いた。
「……清龍」
その声には妙な熱が宿っていた。
「やっぱり、私じゃ駄目かしら?」
着流しを握りしめながら、朱咲は震える声で続ける。
「あの子より、私の方が貴方を理解してるわ。どうして貴方は私じゃなくて、あの子を選んだの?」
その言葉を聞き、清龍は深く息を吐く。
「…その話は終わったはずだ」
身体を反転させ、朱咲と向き合う。
「お前も理解してくれただろ」
朱咲は黙ったまま顔を上げた。
その瞬間。清龍の表情が凍りつく。
彼女の瞳は、血のような赤色に染まっていた。
「お前、その目……!」
即座に朱咲の肩を掴み引き離す。
そして懐から一枚の札を取り出し、その胸へ叩きつけた。
札に刻まれた陣が青白く発光する。
清龍が呪文を唱えると、光は鎖のように伸び、瞬時に朱咲の身体を拘束した。
「っ……!」
苦痛に顔を歪める朱咲。
その後、清龍は周囲を睨みつける。
「くそ……それほどか」
この場所に満ちる何かが、人の心へ直接干渉している。
「……私を縛るなんて酷いわ、清龍」
体を揺らし、朱咲は小さく笑う。
「でも、昔からそうだったわよね。私、一度でいいから貴方に縛られたいと思っていたのよ」
「朱咲、気をしっかり保て!」
清龍は叫ぶ。
「気配に呑まれるな! このままじゃ――っ」
言葉の途中で視界が揺れる。
足元がぐらつく。
脳が掻き回されるような感覚に、清龍は歯を食いしばった。
「っ……!」
異変は止まらない。
「どうして……?」
朱咲の声が響く。
「どうしてあの子なの?」
恨みと悲しみが混じり合った声。
「どうして私じゃ駄目だったの?」
赤い瞳が涙で揺れる。
「私の方が貴方を理解してるのに。貴方のこと全部知ってるのに」
やがてその感情は濁流のように膨れ上がり、声が教会中へ響き渡った。
「どうして!どうしてどうしてどうしてどうしてどうして!!」
叫びと共に空気が震える。
清龍は刀を抜き、刃を朱咲に向けて呪文を唱えた。
だが。
「清……」
そこで、聞き慣れた声が耳に届く。
目の前に桃華が立っていた。
「桃華……?」
清龍は目を見開く。
あり得ない。
彼女は家にいるはずだ。
帰りを待っているはずだ。
「なんでここに……」
桃華は悲しそうに微笑んだ。
「どうして?」
「え?」
「どうして、本当のことを言ってくれないの?」
涙が頬を伝う。
「私、ずっと待ってるよ」
震える声。
「なのに、何で言ってくれないの?」
清龍は言葉を失う。
「私、清の力になりたい。少しでも清が楽になれるようにしたい」
涙を拭うこともせず、彼女は訴える。
「なのに、清は何も話してくれない」
胸が締め付けられる。
「……やっぱり清が私を選んだのって、刻印があったから?」
「え?」
桃華は左手の甲を見つめた。
そこには刻印がある。
「清、最初から知ってたよね?私が刻印持ちだって」
静かな声。
「知らないふりをしてただけで、本当は出会った時から知ってたよね?」
「違う…っ」
だが桃華は聞かない。
「清は朱咲さんとずっと刻印を探していた」
赤く染まった瞳が清龍を見つめる。
「刻印持ちは世界に仇をなす存在。だから見つけたら殺す」
「違う……!」
「だから私が刻印を持ってるって言った時、貴方は私を殺そうとした」
「何を言って、…そんなわけない!」
清龍は叫ぶ。
「私をそばに置いてるのは、その方がいつでも私を殺せるからだよね?」
「違う!俺がお前をそばに置いているのはそんな理由じゃない!」
しかし視界はさらに歪む。
身体から力が抜ける。
刀が手から滑り落ちた。
金属音が床へ響き、膝が崩れ落ちる。
「っ、……は」
吐き気。眩暈。
呼吸さえ苦しい。
「清」
桃華はしゃがみ込み、彼を見つめた。
「私、清のこと好きだよ」
優しい声。
「清も言ってくれたよね」
涙を浮かべながら微笑む。
「私を好きだって。愛してるって」
意識が霞む。
「……もも、か……」
「刻印は呪いから生まれた。だから排除しなきゃいけない」
桃華は静かに続けた。
「でも刻印は人間と一体になってからでないと浮かんでこない」
囁くような声。
「だから消すなら、その人ごと殺さなきゃいけない」
清龍の心を抉るように言葉が重なる。
そして桃華は微笑んだ。
「ねぇ、清。言っちゃった方が楽だよ」
クスクスと笑う。
「私を愛してるなんて嘘なんでしょ?」
赤い瞳が揺れる。
「本当は私を殺したくて仕方ないんでしょ?」
教会の闇が濃くなる。
このままだと、完全に気配に呑まれる。
「ほら」
彼女は優しく手を差し伸べた。
「受け止めるから、言ってみて」
「っ、…」
薄れゆく意識の中で、清龍はただ彼女を見つめる。
その赤い瞳の奥に映ったのは、苦痛に顔を歪めた自分自身の姿だった。




