闇夜の二人
月は雲に半ば呑まれ、薄く滲んだ光だけが大地を照らしていた。
その夜、とある大陸の片隅にある小さな村の入り口に、一人の男が静かに立っていた。
「……………」
黒の髪を夜風に揺らしながら、カフルエルは何も言わず村を見つめる。灯りの漏れる窓。家畜の鳴き声。どこにでもある、平穏な村の景色だった。
だが、その平穏は音もなく侵食され始める。
彼の足元から、黒い芽がひとつ顔を出した。
芽は瞬く間に成長し、捻じれるように茎を伸ばしていく。やがて蕾となり、黒々とした花弁を開いた。
闇を吸い上げたような不気味な花。その一輪が二輪となり、十輪となり、気づけばカフルエルの周囲一帯を埋め尽くしていた。
花々は、まるで彼に傅く兵士のように静かに揺れている。
カフルエルはそれらを見下ろし、低く呟いた。
「……行け」
その言葉を合図に、花々が一斉に動き出した。
蛇のように細長い茎を地面へ滑らせながら、黒い花は村全体へ駆け巡る。家々の壁を這い、窓を塞ぎ、屋根を包み込み、村を丸ごと巨大な黒い檻へ変えていく。
そして、すべてを覆い尽くしたことを確認すると、カフルエルは片手を静かに掲げた。
ぱちり、と指先が鳴ったその瞬間。
花弁の中心から、黒い煙が一斉に噴き出した。
煙は花粉のように細かく、隙間から家屋の内部へ流れ込んでいく。
村中が黒い靄に満たされ、しばらくすると、あちこちから苦しげな呻き声が響き始めた。
悲鳴は次第に大きくなり、やがて断末魔のような叫びへ変わっていく。
しかしそれは長くは続かず、数分もしないうちに村は不気味な静寂に包まれた。
家々を覆っていた花がゆっくりと離れていく。しゅるしゅる、と茎を引きずりながら地面へ戻っていくその様子は、生き物というより巨大な寄生植物の群れそのものだった。
家の扉が開き始め、村人たちが中から現れる。誰もが両腕をだらりと下げ、焦点の合わない目を虚空へ向けていた。まるで魂だけが抜け落ちた操り人形のようだ。
彼らは覚束ない足取りで歩き出し、ゆっくりとカフルエルのもとへ集まっていく。
一人、また一人。
やがて村人全員が彼の前へ並んだ。
「あら。圧巻の光景ね」
空から声が降ってくる。
カフルエルの隣に一人の女が姿を現した。
灰色の髪を揺らしたその女・シエルは、楽しげに目を細めながら村人たちを見回す。
「………まだ遅いな」
「え?」
カフルエルは淡々と呟く。
シエルが首を傾げた直後、カフルエルは指を鳴らした。
瞬間、彼の周囲に咲いていた花々が一斉に崩れ落ちる。
村を覆っていた花も同様だった。
黒い花弁は力を失い、夜風に吹かれて地面へ散っていく。
その光景はどこか幻想的でありながら、墓場へ供えられた花のような不吉さを帯びていた。
「まだ遅いって、これで?」
「この程度では奴らに気づかれてしまう」
カフルエルは静かに掌を見つめる。
「……計画を完璧にこなすためには、これよりももっと速さが必要だ。理想は、花を出現させることなく植え付けることだが……まだまだ精進せねばな」
その声には焦りも驕りもない。ただ己の不足を測る職人のような冷静さがあった。
やがて彼は腕を前へ伸ばす。
すると村人たちが一斉に顔を上げた。
虚ろだった瞳が、どろりと赤く染まっていく。
彼らの目の前には、それぞれ武器が現れた。斧、包丁、鍬、剣。手近に存在した凶器が、まるで呼び寄せられるように宙へ浮かび上がる。
村人たちはそれを無言で掴んだ。
次の瞬間。最も近くにいた相手へ、何の躊躇もなく刃を振るう。
肉を裂く音が夜へ響く。
悲鳴。
怒号。
骨の砕ける鈍い音。
血飛沫が地面を染め、瞬く間に辺りには赤黒い池が広がっていく。
それを見ても、カフルエルの表情は微塵も変わらなかった。
まるで、ただ雨でも眺めているかのように冷めた目でその光景を見つめている。
「あらら。可哀想。ここの人たち、凄くストレスが溜まっていたのね」
シエルはくすくすと笑う。
「滑稽だな」
カフルエルはぽつりと呟き、その場から背を向けた。
「…最後まで見ていかないの?」
「必要ないだろう。放っておいてもこいつらは勝手に殺し合い、勝手に死ぬ。それを見ているほど俺たちは暇じゃない」
「せっかく楽しい光景なのに、勿体ないわね」
「似たような光景を近いうちに見せてやる。……行くぞ」
そう言ってカフルエルは歩き出す。
シエルも名残惜しそうに振り返りながら、その後を追った。
背後では、村人たちの絶叫と金属音が夜明けまで絶え間なく響き続けている。
そして、しばらく歩いたあと、シエルが思い出したように口を開いた。
「……そういえば、あの子たち。今はサクラ村って所にいるみたいよ」
カフルエルは無言のまま歩き続ける。
「サクラ村って、以前まで貴方が隠れ蓑にしていた場所よね。……運命って恐ろしいわね」
シエルは肩を震わせながら笑った。
「どう?同じダークエルフとして、あの子があの村に滞在してることに何か思うところはあるかしら?」
数秒の沈黙。
やがてカフルエルは低く呟いた。
「……俺をダークエルフと呼ぶな」
その声音には、僅かな嫌悪が滲んでいた。
「今でこそこの姿となり見た目の大差はなくなったが、俺はあんなものとは違う」
ぴしゃりと言い切る。
シエルは小さく肩をすくめた。
「ごめんなさい」
軽い調子の謝罪だった。
「貴方はダークエルフではなかったわね」
カフルエルはそれ以降何も答えない。
ただ黙って、次なる目的地へ向けて歩き続ける。
その背を照らす月明かりは薄く、二人の影は夜の闇へ静かに溶け込んでいった。




