フィルの入学
数日後。
フィルは学び舎の教室に立っていた。
朝の柔らかな陽光が窓から差し込み、整然と並ぶ机を照らしている。
教師に促され、一歩前へ出たフィルは胸元に手を添え、丁寧に一礼した。
「フィルといいます。はじめまして」
静かで落ち着いた声だった。
ゆっくりと頭を上げ、口元に微笑を浮かべた瞬間。教室の空気が一気にざわめく。
「ちょっと何あれ、凄いイケメン!」
「所作とか綺麗すぎ。何処かの貴族みたい」
「それか、王子様とか?」
「彼女とかいるのかな?」
女子生徒たちの声があちこちから飛び交う。
対して男子生徒たちは、そんな様子を見て呆れ半分といった顔をしていた。
「お前ら騒ぎすぎだろ」
「イケメンなんてそこら辺見ればぞろぞろいるぞー」
「君たち静かに!」
教師は軽く咳払いをすると、空いている席を指差した。
「フィル。君はあそこへ」
「はい」
フィルは素直に頷き、指定された席へ向かう。椅子を引き、静かに腰を下ろしたその時、隣から声がかかった。
「よろしく、フィルくん」
「?」
顔を向けると、自分を見つめて黒髪の少年がにこにこと笑っていた。
「俺は修介。これから仲良くしていこうね」
柔らかな口調。だが、その笑顔にはどこか作り物めいた薄さがあった。
フィルは一瞬だけ彼を見つめ、気づかないふりをして小さく微笑む。
「よろしく」
この教室には、十七歳から二十歳までの生徒が在籍していた。
場所はルーンたちの教室の真上。そして集められているのは、学び舎の入学試験で特に優秀な成績を収めた特待生ばかりだった。
当然、求められる水準も高い。
フィルがこの教室へ入れたのは、数日前に彼自身が言っていた“アテ”のおかげだった。
+
「……それで、さっき書いたこの公式をここに当てはめると……」
そして、初めての授業。
教師の声が静かな教室に響き、生徒たちは一斉に黒板に書かれた公式をノートへ書き込む。
カリカリ、という鉛筆の音だけが耳に残る。
誰一人として私語をしない。
張り詰めた空気は、まるで試験会場のようだった。
「(うわぁ……)」
フィルは内心で呻く。
桃華や依千蔵から、特待生の教室の授業は"かなり難しい"という話は聞いていた。だが、実際に体験すると想像以上だった。
今は数学。
教科書に並ぶ数字と記号が、まるで別世界の言語のように見える。
「(これ、本当に人が考えたのか……?)」
教師の説明を必死に追いかけながら、フィルはノートを埋めていく。
理解が追いつかない。
頭の中で何かが焼き切れそうだった。
「(ぶっ倒れそう…)」
このような授業が夕方まで続く。
そう考えた瞬間、軽く眩暈がした。
+
そして迎えた昼休み。
フィルは早速、女子生徒たちに囲まれていた。
「ねぇねぇ。フィルくんは何処から来たの?」
「き、北の大陸から……」
「北の大陸って、一年中、雪で溢れてるって本当?」
「……まぁ、例外はあるけど」
「どうしてフィルくんは、この学び舎に?」
「ええと……知り合いがたまたまこの学び舎の卒業生で、その紹介で」
質問が途切れず、次から次へと飛んでくる。
フィルは困惑しながらも、なんとか返答を続けていた。
本当なら、すぐにでもルーンのいる教室へ向かいたいが、この状態では逃げ出す隙すらない。
「おーい、女子たちー。俺たちにも話しかけてほしいんだけどー?」
教室の隅から男子生徒の声が飛ぶ。
「そいつ困ってんぞ。早く解放してやれよ」
「アンタたちには毎日話しかけてるでしょう?」
「私たちは今、フィルくんと話してるの。邪魔しないでよ」
女子生徒たちは不満げに返し、再びフィルへ向き直る。
「なんだよ。俺たちもそいつと話したいのに!」
「女子ばっかりずるいぞー!」
男子生徒は抗議するも、どこか楽しそうだった。
「………」
その様子を。
教室の扉付近で、修介は静かに見つめている。
そこに、今朝のような笑顔はどこにもなかった。
+
放課後。
ようやくフィルはルーンのもとへと辿り着いていた。
廊下を歩く彼は肩を落とし、完全に疲れ切った顔をしている。
そんな彼を見て、ルーンは息を吐いた。
「初日、ご苦労様ね」
「あんなに人に物を尋ねられたのは初めてだった……」
フィルは遠い目をしながら呟く。
その横で、桃華がくすりと笑った。
「フィルさん、凄かったよね。私の教室の方でも放課後までフィルさんの話で持ちきりだった。特待生の教室にカッコいい男子生徒が入ったって。私も見に行くの誘われたけど、流石に断ったよ」
「桃華姉ちゃんは毎日会ってるからな」
ルーンの隣で、依千蔵が言う。
「まぁ、それも最初だけだと思うし、ほとぼりが冷めるまで我慢だね」
「ほとぼり……」
フィルはげんなりした顔で息を吐いた。
「それはそうと、授業の方はどうだったの?ついていけた?」
桃華が尋ねる。
フィルは少し考えてから答えた。
「んー。まぁ、数学以外は一応」
「数学、難しかった?」
「よくわからない数字と記号が出てきた時はどうしようかと思った」
「ああ……気持ちはよくわかる。数学って、公式とか計算とか理解できれば楽しいんだけどね……」
桃華も眉尻を下げる。
ルーンも小さく頷いた。彼女も数学は少し苦手だった。今でこそ慣れたけど、未だに頭が痛くなることがある。
そんな中、依千蔵だけが不思議そうに首を傾げた。
「数学が難しいなんて思ったことないな……」
「え、本当に?」
ルーンが即座に反応する。
「依千蔵は頭が良いからねぇ。清のおかげで」
「なんだよ、その言い方。桃華姉ちゃんも兄ちゃんに勉強教わってるだろ」
依千蔵は眉をひそめ、口を尖らせる。
それを見て桃華は楽しそうに笑った。
夕暮れ色に染まる廊下に、穏やかな笑い声が響く。
「そういえば、まだ聞いてなかったんだけど」
そして、ふと思い出したようにルーンがフィルに聞いた。
「ん?」
「貴方の言ってた“アテ”って、何だったの?」
首を傾げるルーン。
フィルは「ああ」と小さく呟くと、少しだけ意味深に笑った。
「家に帰ればわかるよ。……まだ居てくれればの話だけど」
「?」
その言葉に、ルーンたちは顔を見合わせた。




