第4話
――放課後の図書室。
二年になっても、俺は図書委員を続けることになった。
今日は、その最初の日。
顔合わせも兼ねて、三人でシフトを決める予定になっている。
半年前までは、当たり前のように通っていた場所だ。
扉を開けると、半年前と変わらない静けさが広がっていた。
紙とインクの匂いが、鼻をくすぐる。
……懐かしいな。
カウンターの向こうには、案の定、夜野さんの姿があった。
この人は、いつも俺より先に来ている。
その光景を見て、思わず「ただいま」と口にしそうになったが、その言葉は喉の奥で引っ込めた。
そんなことを言ってしまったら、きっと冷ややかな視線を浴びせられることは分かりきっていたので、流石にそれは言わなかった。
「あ、東さん。来たんですね」
「夜野さん。さっきぶりだね」
「はい。今年もよろしくお願いします」
「あ、ああ。こちらこそよろしくね」
「ところで」
夜野さんは、深呼吸してこちらを向いた。
何か、触れづらい話題でも出す準備をしているかのようだ。
「東さんは、しばらく学校をお休みしていたそうですね。それで、図書委員の方もお休みしていたのだとか」
「……ああ、事故って半年くらい寝ててさ」
「……えっ、そうだったんですか」
「まあ、ね」
「それは、知りませんでした。もう大丈夫なんですか?」
「んー。医者からは、普通に生活していいって言われてるよ」
「……そうですか」
夜野さんは、少しだけ視線を落とした。
それが、気遣いなのか、それとも考え事なのかは分からない。
「図書委員の仕事に支障が出るようでしたら、無理はなさらないでくださいね。無理してまたお休みされてしまうと、私の負担が大きくなるので」
その言い方が、なんだか夜野さんらしくて、
俺は思わず、笑ってしまった。
「大丈夫だよ。少なくとも、本を運ぶくらいは問題なくできるからさ」
「……了解しました」
そう言って、夜野さんは一礼する。
そこには、余計な感情は乗っていない。
あくまで業務としての心配――そういう距離感だ。
その距離が、少しだけ懐かしくて、帰ってきたんだなという感じがした。
「……」
カウンター越しに並ぶ背表紙を見ていると、
ふと、半年前の光景が脳裏をよぎった。
『東くん、これ返却ね』
カウンターの向こうで、夏川陽葵がそう言った。
『また難しそうなの読んでるね』
『好きなんだから、放っといてくれ』
『はいはい』
「……東さん?」
夜野さんの声で、俺は我に返った。
「……そういえば、さ。1年の時、図書委員だった夏川って…」
「……夏川さん、ですか」
「うん。あの子、何かあったのか…? 図書委員、辞めちゃったみたいだし」
「私も、詳しい事情は把握していません。なので、それについては」
夜野さんは一度だけ、言葉を区切る。
「西沢さんに聞いた方が、良いかと思います」
西沢さん、か。あの人……前にも話したことがあったような気が……。
――思い出した。
西沢さんって、夏川の友達だったんだ。
あまり話したことがなかったから、すっかり忘れていた。
その時、図書室の扉が静かに開いた。
「遅れてごめんね」
振り向くと、見覚えのある女子生徒――西沢 裕香が立っていた。
肩にかけた鞄を持ったまま、こちらを一度見てから、カウンターへ向かってくる。
「生徒会に呼ばれててさ」
そう言ってから、少しだけ視線をこちらに向ける。
「……あ、東くん。遅れてごめん」
「いや、全然大丈夫」
西沢さんはカウンターの横に荷物を置き、軽く肩の力を抜いた。
「急に呼ばれてさ。新学期の委員会関係って、何かと面倒だね」
「あー、そうなんだ」
西沢さんのどこか様子見のような視線が、時折こちらに向けられているのに気づく。
それに気づかないふりをして、俺は視線を書架へ逃がした。
「……東くん、戻ってきたんだね」
「まあ、一応な。図書委員も復帰ってことで」
「そっか」
短くそう言ってから、西沢さんは一拍置いた。
その沈黙が、妙に長く感じられる。
「そういえば」
俺は、少しだけ迷ってから口を開いた。
「西沢さんって、1年の時も、たまに図書室来てたよな」
「うん。顔出してただけだけどね」
「……夏川の友達、だったよな」
「うん、そう」
そう答えてから、西沢さんは小さく息を吐いた。
考えるというより、言い方を探しているような間。
「東くん」
名前を呼ばれて、視線が合う。
「陽葵のこと、気になってるよね」
「……まあ、な。いつの間にか、図書委員辞めちゃったみたいだし、何かあったのかなって」
西沢さんは、少しだけ困ったように笑う。
「私から話すより、ちゃんと本人に聞いた方がいいと思う」
「……そっか」
それだけ付け足して、西沢さんは視線を逸らした。
半年前、夏川になにかあったのか?どうして図書委員をやめてしまったんだ?分からないことだらけだ。
「……分かった」
今すぐにでも聞き出したかったが、それ以上、追及はしなかった。
西沢さんが"本人に聞いた方がいい"というのであれば、彼女から無理やり聞き出すべきではないということを、なんとなく理解したからだ。
「じゃ、シフト決めよっか」
西沢さんは話題を切り替えるように、机の上の紙を手に取った。
「夜野ちゃん、もうシフト書いたの?」
「はい。大体は」
「さすがだね」
三人で紙を覗き込む。
その輪の中に、夏川の姿はない。
それが当たり前になっていることが、
少しだけ、胸の奥に引っかかった。
――シフト表が一通り埋まり、机の上には沈黙が落ちた。
「じゃあ、今日はこれで解散かな」
西沢さんがそう言って、紙をまとめる。
「はい。特に問題はありません」
夜野さんは事務的に頷き、書類をファイルに挟んだ。
「東くんは久々だし、今日は無理しないで帰りな」
「そこまで虚弱扱いされると、逆に傷つくんだけど」
「冗談冗談」
軽く笑い合って、空気は一応、いつも通りに戻った。
戻ったはずなのに、俺の意識はずっと別のところに引っ張られていた。
――本人に聞いた方がいい。
西沢さんの言葉が、頭の中で何度も反響する。
それはつまり、理由があるということだ。
簡単には他人が口にできない理由が。
「……あ」
帰り支度をしていた西沢さんが、ふと思い出したように声を上げた。
「東くん」
「ん?」
「今日、このあと予定ある?」
「特には。家帰って寝るくらい」
「相変わらずだね」
そう言ってから、西沢さんは少しだけ迷うように視線を泳がせた。
「じゃあさ、図書室閉めたあと、少しだけ残らない?」
「え、なんで?」
「……陽葵のこと」
その名前が出た瞬間、胸の奥がきしんだ。
夜野さんは、何も聞いていないふりをして本の整理を続けている。
露骨なくらい、距離を取ってくれていた。
「本人に聞いた方がいいって言ったのに?」
「うん。でも、全部は話せないけど」
西沢さんは苦笑する。
「東くんが戻ってきたって、陽葵に伝えるかどうか、それだけは決めておきたくて」
「……あ、伝えてないの?」
「まだ」
短い沈黙。
図書室の時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「もし、伝えたら」
俺は、言葉を選びながら続けた。
「会いに来る、と思う?」
「分かんない」
西沢さんは正直に首を振った。
「でもね」
一拍置いてから、続ける。
「別に、避けたりとかしないと思うよ。あの子」
その言い切りが、やけに重かった。
「……じゃあ」
俺は、息を吸ってから答えた。
「伝えていいよ。別にやましいことなんて何もないしな」
「いいの?」
「俺たち、何かあった訳じゃないからさ」
自分で言っておいて、少しだけ笑う。
そんな俺を見た西沢さんは、何やら考え込んでいる様子だったが、ゆっくりと頷いた。
「分かった。じゃあ、伝えるね」
そのやり取りを、夜野さんは最後までこちらを見ずに聞いていた。
けれど、本を棚に戻す手が、一瞬だけ止まったのを、俺は見逃さなかった。
――放課後の図書室。
半年前と同じ場所で、同じ時間が流れている。
でもきっと、次にこの扉が開くとき、
そこに立つ誰かは、もう「懐かしい」だけの存在じゃなくなる。
そんな予感だけが、静かに胸に残っていた。
1〜3話に登場したキャラクターの名前の箇所にルビを追記しました。
わざわざ見に行かなくても良いように、以下に記載しておきますね。
・東 一太郎
・西沢 裕香
・南川 瞬哉
・春宮 桜花
・夏川 陽葵
・夜野 静




