第3章 ⑦
悠人は随分と浮かれていた。
何度も通っているはずの配達ルートを間違えたし、もしかしたら新聞を入れるポストも間違えていたかもしれない。
何せあれだけ新聞を見ていたというのに、内容のことは一切頭に入っていなかった。
彼女と2人で眺めていた星空は、徐々に曇り始め、ポツポツと雨を降らせた。そして見る見るうちに、天気予報通りの激しい雨となった。
「あぁ、折り畳み傘も持ってきたらよかった〜」
彼女は頭を抱えて大げさなリアクションをする。準備万端だった彼女も、さすがに雨具は持っていなかった。
樹葉で凌げるはずもなく、降り注ぐ雨でぐっしょりと全身が濡れた。
急いで山を降りて、雨宿りができそうな場所を探す。しかし生憎周りには雨宿りできそきな場所はなかった。そもそもいつ止むか分からない雨を濡れた格好で待つわけにはいかない。
「とりあえずウチの方が近いから」
悠人は咄嗟に提案する。彼女に風邪を引かせるわけにはいかない。
「……う、うん」
ぬかるんだ道を彼女の手を引いてひた走る。五分ほどでつける距離だ。
お風呂と着替えができれば、風邪は引かずに済むだろう。
玄関のひさしまでたどり着くと、ようやく一息つくことができた。雨を防ぐものがなかったから、2人ともプールにでも入ったかのようにびしょ濡れだった。
「ご、ごめん」
「どうして謝るの?」
彼女はクスッと笑う。
「悠人くんが雨を降らしたわけじゃないでしょ」
「でも確認してなかったし」
「それは私も一緒」
ぐうの音もでない正論に悠人は何も言えなくなった。どうやら彼女は悠人に謝らせないつもりのようだった。
なんだか落ち着かなくて、逃げるように扉に手をかける。扉が開いた。
まだ鍵は開けていない。
全身に悪寒が走る。雨で濡れているのも相まって、震えが止まらなかった。纏わりつく服が気持ち悪く感じた。つくづく自分の思慮の浅さに腹が立った。母親が早く帰ってきていることすらも考え付かないなんて。
床のきしむ音が徐々に大きくなる。母親はすさまじい怒りが眉のあたりに這っていて、悠人を一点ににらみつけていた。
そして次の瞬間、悠人は思い切り突き飛ばされていた。雨の中で倒れこんで、全身が泥にまみれたが、そんなことは気にしていられなかった。
「ご、ごめんなさ……」
「どれだけ私に迷惑をかけたら気が済むの?」
パシンッ、と小気味いい音がなった。頬がヒリヒリと痛んで、すぐに平手打ちされたことが分かった。
それから髪を掴み上げて悠人を無理やり起き上がらせる。
「誰のおかげで生活できてると思ってるの?」
「何の役にも立たないあなたの面倒を見てあげてるのよ?」
「バイトで稼ぐようになったから、大目に見てあげていたのに裏切るの?」
母親は言いたいことを吐き出すたびに、平手打ちした。
どうやら今日は機嫌が悪いらしい。もちろん弁明の暇さえ与えてくれない。脳が揺れるほど、思い切りひっぱたかれる。
あぁ、どうにかして彼女に迷惑をかけないようにしないと。怖がらせてしまった。
バレないようにやり過ごして、家まで送り届けるしかない。でも、どうやって……。
「待ってください!」
突然声が聞こえてきて、平手打ちが止んだ。
悠人が薄目を開けると、母親との間に彼女が割り込んできていた。
「ちょ……」
悠人は彼女のことを止めようとするが、その声はすぐにかき消された。
「明らかにやり過ぎです。私のために少し遅くなっただけですから」
彼女の堂々たる物言に圧倒された。淡々としたいつもの彼女の声なのに、絶対に曲がることがない強い芯がある口調だった。
それは母親も同じようだった。一瞬たじろぎ、すぐに臨戦態勢に戻る。
「誰よあなた! 何も知らない部外者でしょ!」
「あなたのことは知りませんけど、悠人くんのことは知ってますよ。家計のためにバイトをして、弁当も作ってきて、家事もしてます。こんなことで叱られる道理はないです」
「悠人は私の息子よ! 私に従うのは当然でしょ!」
「悠人くんは優し過ぎるので、人を助けるためなら自分の犠牲は厭いません。それがどんなに大変でも、どんなに辛くても」
彼女は前を向いていたけれど、まるで悠人にも語りかけているかのようだった。
彼女の冷静な詰め方は、母親の神経を逆なでしているようで、歯を思い切り食いしばっている。
「だけどそれだと悠人くんの意志が無視されてしまいます。従いたくなくても、悠人くんなら我慢してしまう……」
「私が無理やりやらせてるっていうの!?」
「はい。やりたくてやっているようには見えません」
彼女が言い切る前に、母親は右手を振りかぶっていた。
そして彼女の頬めがけて、振り下ろす。
「待て!」
悠人は素早く彼女の後ろから飛び出して、母親の手首を掴んで止める。
母親は止められるとは思っていなかったのか、驚愕の顔で悠人を見た。
「な、何すんの!?」
悠人は目を閉じて、思い詰めたように言葉を紡ぐ。
「……彼女に手を出すなら」
それから母親の目を見て、公然と言った。
「もうあなたには従わない」
「……っ!」
怒気がこもった悠人の声に、母親はたじろぎ後退りする。悠人がパッと手を離すと、尻餅をついて泥まみれになった。
「ごめん、行こう」
それから玄関に置かれていた傘を手に取って開くと、彼女に手を差し出す。
彼女が悠人の手を取ると、それからは一度も母親の方を振り返ることなかった。




