第3章 ⑥
夜を待ち遠しいと思ったことなんて、これまでなかったかもしれない。
バイトの締め作業をしながら、悠人はそんなことを考えていた。
これまでの夜は、母親の帰りを待つだけで、一点の光明もない時間だった。底なし沼でもがき苦しみ、泥が身体中に纏わりついているかと思うほどに億劫な気分だった。
今日はそれらをかき消すように、高揚感が波打ってきていた。
午後6時を過ぎて、辺りは夜の帳が降りてくる。待ち合わせ場所はいつも通り、彼女の家だ。
しかし彼女の家に近づくにつれて、徐々に憂心が湧き上がってくる。自分で振り返ってみても、放胆な行動だった。落ち込んでいる彼女を目の前にして、いろいろな感情や情報がごちゃ混ぜになった結果の咄嗟の発言だったのだ。不純な動機だと勘違いされたら、嫌悪感を抱かれてしまうだろう。
そんな悠人の憂心は、家の前て待っていた彼女の笑顔によって吹き飛ばされた。
悠人は息を大きく吸い込んでから、声をかける。
「お待たせ」
「全然。よし、行こっか」
数時間前に会ったはずなのに、何だか久しぶりなような気がした。
彼女は浮かれる気持ちを軽やかな足取りに乗せて歩く。悠人はおいて行かれないように早足で横に並ぶ。
シンは祭りで忙しいと言って付いてきていない。完全に2人きりだ。何かあったら、自分1人で守らなければならない。悠人は緩んでいた気を引き締める。
薄暗い夜道で、時折彼女が街灯の淡い光を浴びる。
そういえば彼女の私服は初めて見ることに気が付いた。イメージ通りにシンプルで落ち着いた服装だ。
自分も私服の方が良かったかもしれない。悠人はそう考えたが、バイト終わりで時間がないから仕方ない。
道中、彼女が笑いながら話しかけてくる。以前の様子に戻ったようだった。
やがて目的地の山にたどり着く。徒歩で来られるとはいえ、駅の反対側だから、彼女の家からだと意外と遠い。
この前は気が付かなかったが、悠人の家からの方が近いくらいだった。
山道は夕方だった前回とは違って、真っ暗だ。ほとんど何も見えない。
すると彼女はカバンから懐中電灯を取り出して、道を照らす。
さすが、1人でここに通うだけあって、準備は万端のようだ。それでも懐中電灯と山道の組み合わせは肝試しのようで、不気味な雰囲気がある。
「よくこんなところに1人で来てたね」
「それだけ素敵なところなんですよ」
彼女はわざとらしく気取った口調でそう言った。
それから前回と同じように彼女が先を歩く、と思っていた。
「ん」
突然、彼女から手を差し伸べられる。
多分この場で同盟を結びましょうという合図ではない。
どうしていいか分からず、悠人は硬直した。
「転ぶと危ないよ」
彼女は首をかしげながらそう言うと、悠人の手首を掴んで歩き始めた。
あまりに突然の出来事にパニックになり過ぎて、足が絡まってしまいそうだった。
彼女の手はずいぶんと冷たく感じられた。自分が熱いだけかもしれない。それに線が細く、力も強くない。それでも振りほどけない何らかの力が働いていた。
足元がおぼつかない中で、てんてこ舞いになりながら、なんとか中腹までたどり着く。これだけで疲労困憊になりそうだった。ようやく彼女から解放される。膝に手を置いて呼吸を整えていると、彼女の声がする。
「ほら、見て!」
悠人が顔をあげると、そこには空一面に星々が煌めいていた。まるで海が陽光で反射しているかと思うほどに眩しい。これほど明るい夜は見たことがない。
いや、ずっと上には広がっていたのかもしれないけれど、見上げたことがなかった。気にしたことがなかった。
思わず柵まで近づいて、身を乗り出した。手が届きそうな星々にもっと近づきたいと思った。
ふと彼女の方に目を向けると、柵から数歩下がったところから遠慮がちに星を見ていた。
悠人は自分の浅はかな行動に憤りを覚えた。誰かにぶん殴って欲しかった。
考えてみれば当然のことだ。彼女は一度ここで飛び降りようとしている。近づきたくても近づけない。
彼女にも近づいて欲しい。
悠人は身を切り刻むような苦悩をして、それから手を差し伸べた。
「これで落ちないでしょ」
これは彼女を守る行為であり、喜んでもらうためだ。悠人は頭の中で言い訳を繰り返しながら、気持ちを落ち着かせる。
彼女はまるで子犬のように飛びついてきた。それからは2人で星を眺めた。
悠人はもう星なんて見る余裕はなくなっていた。




