78 第16章:元仲間の悲惨な土下座と一蹴
第16章 第3節
北方の山あいにひっそりと佇む、かつての廃村――いまや『温泉こたつ庵』および全宇宙の怠惰と極楽の頂点を極めるリゾート特区。
そこに突如として押し寄せた、王国の側近官僚たちと魔界の古参高官たちは、レオンとルシアの足元にすがりつき、涙を流しながら「戻ってきてくれ!」「魔王城へお戻りを!」と叫び声を上げていた。
王都の経済も、政治も、魔界の統率も、すべてはこの村にいる二人の「気まぐれな存在」に依存してしまっているという、世界の構造的なバグがここで完全に露呈した瞬間だった。
しかし、そんな人類と魔界の未来を背負う者たちの絶望的な懇願の最中にもかかわらず、当のレオンとルシアは、まったく別の世界にいた。
「ふぁぁぁ……。やっぱり、サウナ上がりの風呂上がりに飲むフルーツ牛乳って、宇宙の真理だよねぇ……」
村の特設お風呂上がり処のベンチに腰掛けたレオンは、腰に片手をあてながら、ガラス瓶に入った冷え冷えのフルーツ牛乳をゴクゴクと喉へと流し込んだ。
濃厚なミルクのコクと、絶妙な甘酸っぱさのフルーツ果汁が混ざり合った黄金色の液体が乾いた体に染み渡り、全身の毛穴という毛穴から幸福のため息が漏れ出す。
その隣で、前魔王ルシアも全く同じポーズでフルーツ牛乳の瓶を傾けていた。
「ぷはぁーーっ!! うん、これこれ! お風呂上がりのフルーツ牛乳がない人生なんて、魔王の玉座よりも価値がないわ!」
ルシアは満足げにぷはっと息をつき、空になったガラス瓶をカコンと木製のテーブルに置いた。
その二人の背後では、王国の側近官僚たちが「レオン殿ぁああっ!」と床に突っ伏して泣き叫び、魔界の古参高官たちが「ルシア様ぁああっ!」と頭を抱えて地面を叩き続けている。
広場の喧騒は最高潮に達していたが、レオンとルシアにとっては、今飲んだフルーツ牛乳の美味しさの余韻に比べれば、王国の財政破綻も魔界のクーデターも、まるで蚊の鳴き声よりもどうでもいいことに思えた。
レオンは空になった瓶をクルクルと指先で回しながら、ふっと隣のルシアに目を向けた。
そして、ルシアもまた、ちょうど同じタイミングでレオンの方を向いた。
二人は顔を見合わせ、数秒間の静かな沈黙の後――、
同時に、全く同じセリフを口にした。
「「絶対、やだ(戻らない)。」」
そのあまりにも息の合った、そして一切の迷いのない即答に、周囲で泣き叫んでいた側近や高官たちの声が、ピタリと止まった。
「え……?」
王国の側近官僚が、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、信じられないものを見るような目でレオンを見た。
「い、いま……なんておっしゃいました……? 戻らない、とは……?」
レオンは面倒くさそうに頭をポリポリとかきながら、やれやれといったふうに肩をすくめた。
「いや、だからさ。王都に戻って王様になれとか、政治を回してくれとか言われても、こっちは毎日ここでこたつに入って、美味しいラーメン食べて、サウナに入ってダラダラするだけで手一杯なんだって。そんな忙しい仕事、誰がやるもんか」
「そうだ、そうだ!」と、ルシアも腕を組んで力強く頷いた。
「私だって、あんな殺風景で暗い魔王城に戻って、毎日山積みの書類に目を通したり、過激派の面倒を見たりする生活なんて真っ平ごめんだわ! ここにはブラッドの作る極上のご飯も、ガロアの掘った最高の露天風呂もあるし、何より毎日が日曜日みたいに最高じゃない! わざわざ地獄みたいな玉座に戻る理由がどこにあるのよ!」
「そんなぁぁぁーーっ!!」
王国の側近官僚が絶望のあまり頭を抱えてひっくり返った。
「あなたが戻ってきてくれなければ、王都は明日にでも経済破綻して崩壊します……っ!」
「知るか! 困ったら王都の真ん中に温泉でも掘りなさいよ、そうすればみんなハッピーになるから!」とルシアは一蹴した。
魔界の古参高官たちも、ガクガクと全身を震わせながら震え声を絞り出した。
「ルシア様、それでは魔界は……新魔王軍の未来はいったいどうなるのです……っ!」
「だから、若い奴らで勝手にやりなさいって!」
レオンは穏やかに、しかし絶対に揺るがぬ笑顔で言い放った。
「これからはさ、王族とか魔王とか、人間とか魔族とか、そういう面倒くさい肩書きや上下関係は全部ナシにしようよ。この村みたいに、みんなで美味しいものを食べて、お風呂に入って、のんびりボードゲームでもやってる方が、世界はよっぽど平和でうまくいくんだからさ」
そのレオンの言葉を聞いた瞬間、泣き叫んでいた側近や高官たちは、ショックのあまりしばらく硬直していたが――やがて、その表情から「絶望」の色がスルスルと消え、どこか腑に落ちたような、そして妙に納得したような顔へと変わっていった。
「……王国を立て直すよりも、王都に温泉を掘る……?」
王国の側近がポツリと呟いた。
「いや、待てよ……。もし王都にあの『天下泰平の湯』のような大浴場を作り、レオン殿のレシピのラーメン屋台を並べたら……民衆の不満は一瞬で消え去り、むしろ世界中から観光客が押し寄せる一大リゾート都市に生まれ変わるのではないか……?」
「な、なんだと……!? それはもしや、究極の経済政策なのでは……!?」
さらに、魔界の古参高官たちも目を見張った。
「新魔王軍の覇権を争うより、全軍でサウナの薪割り部隊に転職し、毎日特性ドリンクを飲む生活の方が……はるかに幸福度の高い社会主義的理想郷ではないのか……!?」
人間のエリートたちと魔界の古参高官たちの脳内で、これまでの「統治と支配の世界観」がガラガラと音を立てて崩れ去り、代わりに「全世界を『温泉こたつ庵』のチェーン展開によって完全にリゾート化し、すべての生けるものを怠惰の虜にする」という、壮大すぎる(しかし最高に平和な)新時代のグランドデザインが勝手に描き上がってしまった。
「……なるほど」
王国の側近官僚は、すっかり憑き物が落ちたような爽やかな顔で立ち上がり、深く一礼した。
「分かりました、レオン殿。私たちは王都へ戻り、王宮のすべてを解体し、白亜の聖堂を『王都第一分校・巨大野外サウナセンター』へと改装する手続きを開始します!」
「おう、いい心がけだね」とレオンが親指を立てて笑った。
「魔界の方も、暗黒城をそのまま『魔界最大級の和風旅館』にリノベーションして、全室こたつ付きのスイートルームにすればいいさ。そっちの方が絶対儲かるし楽しいから」と、ルシアも得意げにアドバイスした。
こうして、レオンとルシアを引き戻しにやってきたはずの使者たちは、逆に二人の「極楽リゾート思想」に完全に感化され、それぞれの故郷へと「世界征服ならぬ世界リゾート化の布教者」として誇らしげに帰っていくのだった。
村には再び、穏やかで心地よい秋の風と、美味しいご飯の香ばしい匂いが戻ってきた。
特設のこたつ席に戻ったレオンは、すっぽりと足を入れてふうっと深い息をつき、お茶を一口飲んだ。
「いやぁ、色々あったけど、今日もいい一日だったねぇ」
「ほんとねぇ」
ルシアはこたつの上にみかんを転がしながら、まったりと微笑んだ。
「世界を救う必要なんかない。私たちがここでダラダラと最高に心地よい時間を過ごしているだけで、世界は勝手に一番いい形でおさまるんだから」
世界を救う必要なんて最初からなかった。
ただ、自分が心から心地よいと思える環境を作り、大切な仲間たちと美味しいご飯を食べ、温かいお湯に浸かり、こたつに入ってくだらないおしゃべりをする――それだけで、世界は十分すぎるほど美しく、完璧な楽園なのだから。
『温泉こたつ庵』の物語は、今日も今日とて、最高の湯気と最高の笑顔に包まれながら、どこまでも穏やかに、そして賑やかに続いていくのだった。




