76 第16章:元仲間の悲惨な土下座と一蹴
第16章 第1節
北方の山あいにひっそりと佇む、かつての廃村――いまや『温泉こたつ庵』および全宇宙の怠惰と極楽の頂点を極めるリゾート特区。
そこに突如として押し寄せた、人類と魔族の合同討伐軍「総勢1万名」は、前魔王ルシアが放った究極の受動的オーラ『全戦意蒸発』と、村の総力を挙げて構築された「大衆の欲望を具現化した究極の屋台街」、そして極上のアルカリ温泉のコンボの前に、見事なまでに全員が骨抜きにされていた。
「貴様ら何をやっておる! 武器を取れ!」と血相を変えて怒鳴り散らしていた元・剣聖レイガーと新魔王軍リーダー・バザルトの最後の抵抗も、元・最強の暗殺者ブラッドが差し出した「敗者復活ウェルカム・濃厚背脂豚骨ラーメンとキンキンに冷えた生ビール」の魔力の前に、秒速で粉砕された。
村の入り口の石畳の上で、レイガーとバザルトの二人は、どんぶり鉢のスープの一滴すら残さず綺麗に飲み干し、お腹の底から湧き上がるあまりの幸福感に、盛大に大号泣しながら膝を突いていた。
「ううっ……美味しかった……。こんなに美味しいものを食べたのは、人生で初めてだ……。俺たちが今まで王都で必死に戦ってきた日々は、一体何だったんだ……」
レイガーは空になったどんぶりを両手で大切に抱え込み、子供のようにワンワンと泣きじゃくった。
その隣で、バザルトも漆黒の重装甲の兜を脱ぎ捨て、ビールのジョッキを名残惜しそうに舐め回しながら、しみじみと呟いた。
「あんなに寒くて暗い魔界の城で、毎日イライラしながらクーデターの計画を練っていた自分が馬鹿みたいだ……。この村にある温泉と、このラーメンさえあれば、もう世界征服なんてどうでもいい……」
二人の心から「戦う理由」も「復讐心」も、そして「組織のプライド」も、すべて綺麗さっぱり蒸発し、残されたのはただ「この最高すぎる村に住み続けたい」という強烈な怠惰の欲求だけだった。
しかし、ふと現実に戻ったとき、彼らの脳裏によぎったのは別の恐怖だった。
――自分たちは、この村に対して「洗脳の巣窟を木端微塵に粉砕する!」と宣戦布告し、大軍を率いて押し寄せてきた侵略者である。
もし、この村の主である「謎の強力な魔力を持つ男」や「元魔王」が怒り狂って自分たちを処刑しようとしたら、もう弁解の余地などどこにもない。
「ま、待てよ、バザルト……。俺たちはとんでもない大罪を犯したのではないか……?」
レイガーは青ざめた顔で相棒の袖を引っ張った。
「あんなに良くしてもらったのに、私たちはあの村の主であるレオン殿と、ルシア様に、まだ正式な謝罪すらしていない……! もし怒らせて、二度とこの温泉に入れないようにされたり、永遠にミカンを食べられない身体にされたりしたら……私は、生きていけない……!」
「そ、それは一大事だ……ッ!」
バザルトも顔面を蒼白にし、ガタガタと震え出した。
「我が軍のガロア様はすでにあの村の重要スタッフとして見事に溶け込んでいるが、私たちのような中途半端な侵略者は、今すぐ盛大に謝罪し、この村の軍門に降る――いや、奴隷としてでも何でもいいから慈悲を乞わなければ、一生この極楽から追放されてしまう……!」
二人は顔を見合わせると、同時に激しくうなずき合った。
自分たちのちっぽけなプライドなど、この「圧倒的な快適さの暴力」の前には、もはやタンポポの綿毛よりも軽い。生き残るため、そしてこの最高の怠惰ライフを死守するために、彼らに残された道はただ一つしかなかった。
「行くぞ、レイガー!」
「ああ、命乞いと土下座の準備は完璧だ……!」
二人は立ち上がり、足元に転がっていた折れた聖剣と錆びた大剣を綺麗に揃えて脇に置くと、覚悟を決めた足取りで村の中央広場へと向かった。
その頃、村の中央広場。
特設されたこたつの席では、レオン、ルシア、大賢者、そして元聖女マリアの面々が、平和な午後のひとときを楽しんでいた。
「いやぁ、まさか1万人の軍勢が、到着から小一時間で全員タオル一枚になって露天風呂でプカプカ浮かぶことになるとはねぇ」
レオンはほうじ茶の湯呑みを傾け、クスリと笑った。
「みんな、すっかり『ととのい状態』に入って、村のあちこちで『一生ここに住みます』って言ってるよ」
「でしょ?」と、ルシアが剥きたてのみかんをパクッと口に放り込みながら得意げに胸を張った。
「私の『全戦意蒸発』の魔力と、ブラッドたちの『圧倒的おもてなし攻撃』のコンボの前には、どんな大軍だって一網打尽よ。……おや?」
ルシアが視線を上げると、広場の入口の方から、なんだか妙に神妙な、しかし必死の面持ちをした二人の男が、のろのろと歩いてくるのが見えた。
先頭を歩いていたのは、かつて誇り高き剣聖と呼ばれていたレイガー。その背後には、新魔王軍のクーデターリーダーだったバザルトが続いていた。
二人はボロボロの格好で、すっかり精気を失った(ただしお腹はいっぱいな)顔をしていたが、レオンたちの姿を認めた瞬間、ピタリと足を止めた。
そして――。
「「――ははぁーーっ!! 申し訳ありませんでしたぁーーっ!!」」
バタッ!! と、凄まじい音を立てて、二人の男が同時に石畳の地面に額をすりつけ、見事すぎる「土下座」を炸裂させた。
そのあまりにも見事な、一糸乱れぬ土下座のポーズに、こたつの中でくつろいでいていた大賢者は「おっ、見事な直角の土下座じゃな!」と感心したように手を叩いた。
レオンはまばたきを一つし、ほうじ茶をずずっと啜ってから、面倒くさそうに頭をかいた。
「ええと……君たちは、確かさっきまで『洗脳基地を粉砕する!』って息巻いてた、討伐軍のリーダーの人たちだっけ? いきなりどうしたのさ、そんなところで」
レイガーは地面に額をくっつけたまま、大粒の涙をポロポロとこぼしながら絶叫した。
「レオン殿……! ルシア様……! 私たちは愚かでした……! 自分のちっぽけな保身とプライドのために、貴方様方が作り上げたこの世界で一番美しく、一番平和な『極楽リゾート特区』に牙を剥くなど、万死に値する大罪でございます……!」
「そうだ!」と、バザルトも地面を叩きながら泣き叫んだ。
「俺たちは、この村を『洗脳の巣窟』などと勝手に勘違いし、勝手に被害妄想を膨らませて押し寄せました! しかし、実際に足を踏み入れてみれば、そこにあったのは極上の背脂豚骨ラーメンであり、魂がとろけるような極アルカリ温泉であり、すべての生きとし生ける者を怠惰の幸福へと導く究極の聖地でした……!」
レイガーは土下座の姿勢のまま這いつくばり、レオンの足元にすがりつくような勢いでこう懇願した。
「どうか……! どうか俺たちを、この村から追い出さないでくだされ……! 王都に帰ってももう居場所はありませんし、魔界に帰る顔もありません! 私たちはもう、あの殺伐とした世界には戻れないのです……!」
「お願いします! 私たちをこの村の最下層の労働者としてでも構いません! 薪割りでも、露天風呂の掃除でも、毎日1万個のミカンの薄皮剥きでも、何でもやりますから……! どうか、あの最高に美味い醤油ラーメンと、こたつに入る権利だけは……! どうか私メに……ッ!!」
二人の男は、かつての英雄やクーデターリーダーとしての威厳を完全に捨て去り、生きるか死ぬか(正確には「極楽から追放されるか否か」の死活問題)の瀬戸際で、ありったけの情けない声で慈悲を乞うた。
そのあまりにもドラマチックで、あまりにも全力を尽くした土下座の光景を、こたつの中から眺めていたルシアは、やれやれといったふうにため息をついた。
「まったく……。さっきまであんなにイキって『仲間を奪還する!』とか言ってたのに、美味しいラーメンと温泉を一口味わった途端にこれだものねぇ」
ルシアはクスクスと笑いながら、横にいたレオンの袖を軽く引っ張った。
「ねえ、レオン。この調子じゃ、あいつらもすっかりうちの村の『熱狂的なファン(兼・常連客)』になっちゃったみたいだし、どうする? 追い返す?」
レオンは少しだけ考え込むような素振りを見せ、目の前でブルブルと震えながら土下座を続けるレイガーとバザルトの姿を眺めた。
「うーん……」
レオンはポケットに手を突っ込み、のんびりとした口調でこう言った。
「別に、追い返す理由なんてないよ。うちは誰が来ようが、美味しいご飯と温かいお風呂があって、みんながのんびりダラダラ過ごせる場所を提供したいだけなんだからさ」
その言葉を聞いた瞬間、レイガーとバザルトの顔がパッと明るくなり、まるで光が差したかのように輝いた。
「ただし」と、レオンは穏やかに、しかしハッキリと言い放った。
「これからは、もう『戦争』とか『洗脳』とか面倒くさいことは一切禁止ね。その代わり、明日からは村の運営スタッフの一員として、ガロアやブラッドと一緒に、新しくやってくるお客さんたちに美味しいラーメンを配ったり、サウナのロウリュウを担当したりしてもらうからね。……いいかい?」
「はいっ!! 喜んでぇーーっ!!」
レイガーとバザルトは、文字通りハモるような大声で返事をすると、再び地面にガツンと額を擦りつけた。
「私たちに与えられた天職は、世界を救うことではなく、この村の住民たちに最高の『ととのい』を提供することだと悟りました! 明日から、いや今からすぐに、我が人生のすべてを温泉とこたつに捧げます……!」
「よし、決まりだね」
レオンは満足げに頷き、ほうじ茶の湯呑みを傾けた。
「じゃあ、土下座はもうそのへんにしてさ、せっかくだから二人ともこたつに入りなよ。今ちょうど、ブラッドが焼きたてのバター焼きイモを持ってくるところだからさ」
「「ありがとうございます……!!」」
こうして、かつての世界の英雄と魔界の過激派リーダーは、レオンたちの作り上げた「快適さの暴力」の前に完全にひれ伏し、誇りも野望もすべてかなぐり捨てて、『温泉こたつ庵』の最高に幸せで最高にダラダラした住人へと見事に加入を果たしたのだった。
村の空は、どこまでも高く澄み渡り、心地よい湯気と美味しいご飯の香ばしい匂いが、平和な夕暮れの村を優しく包み込んでいく。
世界は救われなかったかもしれない――いや、救う必要なんて最初からなかったのだ。
ただ、美味しいものを食べ、温かいお湯に浸かり、大切な仲間たちとくだらないおしゃべりをする。それだけで、この世界は十分すぎるほど美しく、完璧な楽園なのだから。




