73 第15章:1万の大軍、完全沼らせ撃破
第15章 第3節
北方の静かな廃村――いまや全宇宙の怠惰と極楽の頂点を極めるリゾート特区『温泉こたつ庵』。
そこに突如として押し寄せた、人類と魔族の合同討伐軍「総勢1万名」は、前魔王ルシアの放った究極の受動的オーラ『全戦意蒸発』と、村の総力を挙げて構築された「大衆の欲望を具現化した究極の屋台街」の前に、ものの見事に全員が骨抜きにされていた。
「洗脳の巣窟を木端微塵に粉砕し、囚われた仲間たちを奪還する!」と荒野を疾走していたかつての殺気はどこへやら、いまや1万名の兵士たちは、人間も魔族も関係なく肩を組み合い、屋台の前で「うめえ!」「このチャーシュー溶けるぞ!」と歓声を上げながら、夢中で料理を貪り食っていた。
そんな大盛況の屋台街の一角。
ブラッドが仕切る濃厚背脂豚骨ラーメンの行列とは別に、少しだけ落ち着いた雰囲気を醸し出す、しかしひときわ香ばしい、懐かしくも洗練された極上の醤油の香りを漂わせる一軒の屋台があった。
そこを取り仕切っていたのは、他ならぬこの村の主にして、すべての「極楽環境」の生みの親であるレオン本人だった。
「お、次のお客さん、いらっしゃい。ちょうど今、麺が茹で上がったところだよ」
レオンは白い特製のエプロンをつけ、大寸鍋から立ち上る湯気の中で、鮮やかな手際で平ざるを振っていた。
彼の目の前に並んでいたのは、先ほどの戦闘まで前線の指揮官を務めていたベテランの騎士たちや、新魔王軍の幹部候補生といった、一癖も二癖もある強者たちだった。
その中の一人、かつて王国の誇る精鋭部隊の隊長を務めていたという歴戦の男が、おそるおそるレオンの前に置かれた一杯のどんぶりを見つめた。
そこにあったのは、ブラッドの濃厚豚骨とは対をなす、どこまでも透き通った黄金色のスープが輝く、『レオン特製・極上のこだわり醤油ラーメン』だった。
厳選された鶏ガラと昆布、そして何種類もの香味野菜を何時間も弱火でじっくりと炊き出し、雑味を一切取り除いたスープに、数種類の特選醤油をブレンドしたカエシを合わせる。表面を美しく覆う鶏油がキラキラと光り、トッピングには絶妙な火加減で仕上げられたピンク色の豚肩ロースのレアチャーシューと、シャキシャキの九条ネギ、そして黄金色の味付け卵がポコンと添えられている。
「……これが、お前が作ったというのか……レオン」
その男は、かつて王都でレオンを冷たい目で見下ろしていた騎士たちの仲間だったかもしれない。彼はごくりと唾を飲み込み、震える手で割り箸を取った。
「そうだよ。濃厚な豚骨もいいけどさ、たまにはこういう、身体の芯からホッとするような、キレのある醤油ラーメンもいいもんだろ? さあ、冷めないうちにどうぞ」
レオンは穏やかな笑顔でそう促した。
男は覚悟を決めたように(何を覚悟しているのかは不明だが)レンゲを持ち上げ、その黄金色のスープを一口だけすくって口に含んだ。
「――っ…………!!」
瞬間、男の全身がビクッと硬直した。
鶏ガラのふくよかな旨味と、昆布の奥深い出汁のコクが舌の上でフワッと広がり、その直後に鼻腔を抜けていく極上の醤油の香ばしいキレ。一切の濁りがない、あまりにも洗練された、しかし魂の底まで染み渡るような優しさと力強さが共存したスープだった。
「な、なんだこれは……っ……!」
男の目から、カッと熱いものが込み上げてきた。
「ただの醤油ラーメンだよ」とレオンは笑う。
「違う……! こんなの、スープじゃない……! 私がこれまで生きてきた中で味わったどんな高級な御膳のスープよりも、遥かに深く、人間の心身の疲れをすべて包み込んで癒やしてくれる……『液体としての奇跡』だ……っ!」
男はもう我慢できなくなり、夢中で麺をすくい上げた。
ツルツルとした喉越しの良い自家製中太縮れ麺が、極上の醤油スープをたっぷりと纏って口の中に飛び込んでくる。噛むたびに小麦の香りとスープの旨味が一体となり、脳内の幸福中枢を盛大にノックした。
さらに、その横では――。
元魔王ルシアが、キンキンに冷えたジョッキを片手に、新たな刺客(?)たちを次々と「堕落の淵」へと叩き込んでいた。
「はいお待ち! サウナ上がりの……いや、サウナ入る前の乾いた喉にガツンと効く、『極上のキンキンに冷えた生ビール(神級麦茶仕立て)』だよ!」
ルシアが差し出したグラスには、表面に美しい水滴がびっしりとつき、その上にはきめ細やかでクリーミーな真っ白の泡がこんもりと乗っている。
それを、先ほどまで「洗脳基地を叩き潰す!」と息巻いていた新魔王軍の若き魔族兵たちが、恐る恐る受け取った。
「えっ……本当に、これを飲んでいいのか……? 魔族の私が、こんな人間の村で、こんな綺麗な酒を……」
「いいからいいから! 難しこと考えるのは一口飲んでからにしなさいって!」
魔族の兵士は言われるがまま、ジョッキを傾けてその黄金色の液体を喉へと流し込んだ。
「――シュワシュワシュワッ……!!」
瞬間、喉の奥で炭酸の爽快な刺激がパチパチと弾け、ホップの爽やかな苦味と麦の豊かなコクが、長旅の砂漠のようになっていた喉を潤し、全身の血流を爆発的に加速させた。
「な、なんなんだこれはぁぁぁーーっ!! うまいっ! 冷たいっ! 爽快感が脳天まで突き抜けるぞーーっ!!」
魔族の兵士は、あまりの美味さと爽快感に、その場でガクッと両膝をついた。
彼の目からは、大粒の涙が滝のようにポロポロとこぼれ落ちていた。
「うわぁぁぁん……! 私、今まで何のためにあんな暗い魔界の奥地でクーデターとか言ってイキってたんだ……! 毎日上官に怒鳴られ、寒い夜空の下で乾いた干し肉をかじりながら戦っていたあの苦労は一体何だったんだ……! 人生で初めて飲むこのビールの美味さに比べたら、今までの私の人生なんて全部おまけみたいなものじゃないかぁぁぁーーっ!!」
その魔族兵の大号泣を皮切りに、周囲でビールを一口飲んだ兵士たち、そしてレオン特製醤油ラーメンを啜った騎士たちの中から、次々と「うわぁぁぁん!」「美味すぎるよぉぉぉ!」という大号泣の声が巻き起こった。
1万名の軍勢が、今や敵味方の垣根を完全に忘れ、美味しい醤油ラーメンとキンキンに冷えたビールのあまりの美味さに、あちこちで号泣しながら抱き合い、喜びの涙を流すという、世界の歴史上かつてない「感動の美食大団円」が繰り広げられていた。
村の特設ステージのインフィニティチェアで、その光景を眺めていた大賢者は、感慨深そうに白い髭を撫でた。
「ふむ……。武力や魔法による征服ではなく、極上の醤油ラーメンと冷えた麦酒による『胃袋の完全支配』か。これほど平和的で、これほど抗い難い降伏勧告が他にあるだろうか。古代の賢者たちも、この味を知っていれば戦争など一切起きなかったに違いないのう」
「でしょ?」と、マリアが剥きたてのみかんをパクッと食べながら得意げに胸を張った。
「レオンの作るご飯は、人の心を溶かす魔法以上の力があるんだから! ああ、私ももう一杯、あの醤油ラーメンのスープもらおうっと!」
その時である。
屋台の列の少し外れた場所で、かつて誇り高き剣聖として名を馳せたレイガーと、新魔王軍のリーダーであるバザルトの二人が、レオンの作った醤油ラーメンのどんぶりを両手で大切に抱え込みながら、子供のようにワンワンと泣いていた。
「レイガー……美味いな……これ……美味すぎるよ……」
「ああ、バザルト……俺たちが間違っていた……。こんなに素晴らしい世界があったというのに、私たちは自分のちっぽけなプライドのために、どれほど愚かなことばかり考えていたんだろう……」
二人はお互いの肩に顔をうずめ、ラーメンの器を落とさないように気をつけながら、声を上げて大泣きした。
かつての敵対関係も、追放劇の恨みも、王国の栄光も魔界の野望も、すべてはこの一杯の極上醤油ラーメンのスープの中に綺麗に溶け込み、消え去っていったのである。
レオンは、その泣きじゃくる元・敵の二人をチラッと見やり、やれやれといったふうにフッと笑うと、もう一つの湯切り鍋へと向き直った。
「はい、次のお客さん、お待たせ! 特製醤油ラーメン、大盛り一丁入りまーーす!」
秋の夕暮れが近づき、村全体が黄金色の温かな光に包まれていく。
戦う者を一人残らず「食う者」「飲む者」「ととのう者」へと変えてしまうこの平和な温泉リゾート村で、今日も今日とて最高に美味しくて、最高にくだらない、幸せな時間がどこまでも穏やかに流れ続けていくのだった。




