72 第15章:1万の大軍、完全沼らせ撃破
第15章 第2節
北方の山あいにひっそりと佇む、かつての廃村――いまや全宇宙の怠惰と極楽の頂点を極めるリゾート特区『温泉こたつ庵』。
そこに突如として押し寄せた、人類と魔族の合同討伐軍「総勢1万名」。彼らは当初、「悪名高い洗脳の巣窟を木端微塵に粉砕し、囚われた仲間たちを奪還する!」という血気盛んな殺気を全身に纏い、荒野を疾走していたはずだった。
しかし、前魔王ルシアが放った究極の受動的オーラ『全戦意蒸発』の魔力と、村の総力を挙げて構築された「大衆の欲望を具現化した究極の屋台街&極楽サウナ」のコンボの前に、その殺伐とした闘争心は跡形もなく消え去っていた。
村の入り口に設置された巨大なヒノキの歓迎ゲートをくぐった先には、地獄の迎撃要塞どころか、極上の豚骨ラーメンの香ばしい匂いと、炭火でジュージューと焼かれる焼き鳥の芳醇なアロマに満ち溢れた「夢の巨大フェス会場」が広がっていた。
元・最強の武闘派将軍だったガロアと、元・裏社会最強の暗殺者ブラッドが「いらっしゃいませーーっ!!」と爽やかなテーマパークのキャストばりの笑顔でお出迎えする姿に、先頭を走っていた兵士たちは文字通り度肝を抜かれた。
「お、おい……どういうことだ……? 本当に……ここでご飯を食べてもいいのか……?」
最前線で立ちすくんでいた王国の若い兵士の一人が、ガロアの横にズラリと並ぶ屋台のカウンターを指さしながら、震える声で呟いた。
彼の足は、数日間にわたる過酷な行軍と野宿のせいでパンパンに腫れ上がり、胃袋は「もう何日もまともな炭水化物を口にしていない」と悲鳴を上げ続けていた。持ってきていた乾物の干し肉はとうに底をつき、水筒の水もぬるい泥水のようなものしかなかったのだ。
そんな限界寸前の兵士たちの前に、湯気をもうもうと立ち上がらせる大寸胴鍋と、黄金色の背脂がキラキラと輝くラーメンが鎮座している。
「いいも何も、ここはウェルカム・リゾート特区だぞ!」
ガロアは爽やかに笑い、その兵士の肩をポンと力強く叩いた。
「ほら、お前さん、顔色が真っ青じゃないか! 長旅ですかすかになった胃袋に、我が村自慢の『神級極濃・背脂豚骨ラーメン』を流し込んで、一気にエネルギーをチャージしな!」
「えっ……でも、私たちはその……討伐軍として……お金も、ちゃんとした代金も――」
「お金なんていらんいらん! ここでは『美味しく食べる笑顔』が一番の高価な通貨だからな! さあ、遠慮するな、どんどん受け取るがいい!」
ガロアに背中を押されるようにして、その兵士はおそるおそる屋台のカウンターへと歩み寄った。
目の前では、元・暗殺者であるブラッドが、冷徹な美笑を浮かべながらも、まるで一流の職人のような滑らかな手際で、茹で上がったばかりの極太麺を平ざるでビシッと湯切りしていた。
「――お待たせいたしました。特製背脂豚骨、チャーシューマシマシの一杯です」
カウンターの上にトンと置かれたどんぶりから、これでもかというほどの濃厚な豚骨スープの香りが鼻腔を直接殴りつけてきた。
黄金色の鶏油と背脂の層の下には、ツルツルとした中太麺が隠れており、その表面には口に入れた瞬間にトロリと溶け出す極厚の炙りチャーシューがドカンと三枚も鎮座している。
「は、ひっ……!」
兵士はあまりの美しさと美味そうな匂いに、思わず息を呑んだ。
背後から、同じように腹を空かせた他の兵士たちもゾロゾロと集まってきて、「おい、本当に食べていいのかよ……?」「嘘だろ、この匂いは反則だろ……!」とざわめき始めている。
「さあ、伸びないうちにどうぞ」
ブラッドに促されるまま、兵士は震える手で割り箸を割り、スープを一口だけレンゲですくって口に運んだ。
「――っ……!!」
瞬間、彼の脳内で雷鳴が轟いた。
豚骨と鶏ガラから限界まで抽出された旨味のコクが、乾ききった舌の上の味蕾を優しく、しかし圧倒的な暴力をもって包み込み、全身の神経へと駆け巡っていく。しつこさは一切なく、ただ純粋な「幸福の旨味」だけが口いっぱいに広がる。
「う、うまい……! うまーーいっ!!」
我慢できなくなった兵士は、箸で麺を一気に掴み上げ、夢中で啜り込んだ。
濃厚なスープをまとった極太麺が喉を心地よく通り抜け、胃袋の底へと落ちていく。長旅の疲れも、組織のプレッシャーも、討伐の任務も、この一杯のラーメンの強烈な美味しさの前に、すべて綺麗さっぱり吹き飛んでしまった。
「うおおおおおっ! うまいぞこれぇっ!!」
「スープが! スープが体に染みるぅっ!!」
その一人の絶叫を合図にしたかのように、後ろで様子を伺っていた1万名の兵士たちの理性のダムが、音を立てて完全に決壊した。
「俺もくれ! その背脂のやつを一杯!」
「私は焼き鳥だ! 塩とタレを両方くれ!」
「おい、かき氷のマンゴー練乳掛け、まだあるかぁーーっ!?」
「「「わぁぁぁぁーーっ!!」」」
さっきまで「洗脳基地を叩き潰す!」と殺気立って進軍していたはずの1万の大軍勢は、見事に全員が「ただの超腹ペコな観光客の大群」へと変貌を遂げ、屋台の列へと雪崩れ込んだ。
広場のあちこちで、「うまっ!」「なんだこれ、人生で一番美味い肉だぞ!」「このスープ無限に飲める!」という歓声と、麺を啜る盛大な音がオーケストラの如く響き渡る。
人間と魔族の垣根なんて、もはや存在しなかった。王国の重装騎士が魔族の精鋭兵と肩を組み、「おい、その焼き鳥の一本、俺のラーメンのチャーシューとトレードしないか?」「いいぜ! 代わりにこのキンキンに冷えたビールの泡を分けてくれ!」と、見事な物々交換の平和外交をその場で成立させている。
その様子を、村の中央のインフィニティチェアから眺めていたレオンは、ほうじ茶の湯呑みを傾けながら、フッと小さく笑った。
「あんなに血気盛んに突撃してきた奴らが、一杯のラーメンと焼き鳥でこうも簡単に骨抜きにされるんだから、世の中チョロいもんよね。……ねえブラッド、次の追加の寸胴鍋、もう二つほど火にかけておいて。この勢いだと、用意した1万食の麺が夕方までに底をつくわよ」
「承知いたしました、ルシア様。すでに第2陣、第3陣の製麺作業に入っております。我が村の製麺力と出汁の供給ネットワークをなめてもらっては困ります」
ブラッドは華麗な手際でチャーシューを追加で切り分けながら、涼やかに微笑んだ。
その頃、屋台の喧騒の少し離れた場所では――。
かつて人類側の最高司令官気取りで馬を走らせていた元・剣聖レイガーと、新魔王軍の過激派リーダーであるバザルトの二人が、なぜか仲良くアルミの折りたたみ椅子に腰掛け、二人並んで「極上の豚骨ラーメン(ネギ・チャーシュー増し)」のどんぶりをすすっていた。
「……なぁ、レイガー」
バザルトが麺をズルズルと啜りながら、遠い目をした。
「あ、あれほど恐ろしい『洗脳の巣窟』だと……我々はあれほど固く信じ込んで進軍していたはずなのだが……」
レイガーはどんぶりに顔をうずめるようにしてスープを飲み干すと、目頭を熱くさせながら力強く頷いた。
「……バザルト、もう何も言うな。これが洗脳だというのなら、俺は喜んでこの村の洗脳奴隷になろう……。なんだこの美味さは……! 王城の晩餐会に出てくるどんな高級料理よりも、この屋台のラーメンの方が魂に響くぞ……!」
「だな……! ガロア様が毎日あの満面の笑みで薪を割っていた理由が、今なら痛いほど分かる。こんな美味いメシが食えて、いつでもサウナでととのえる環境があるなら、魔界のクーデターなんてやってるのが馬鹿らしくなるぜ……!」
二人はお互いに深く共感し合うと、まるで長年の親友のようにガッチリと熱い握手を交わした。
人類と魔族の和平は、政治的な条約でも、王族の交渉でもなく、ただ一椀の「極上の背脂豚骨ラーメン」によって、あまりにもあっさりと、そして完璧に締結されてしまったのである。
村中から聞こえてくるのは、美味しい料理に舌鼓を打つ人々の笑い声と、心地よい秋風の音ばかり。
世界を揺るがすはずだった一大決戦は、こうして全宇宙で最も平和で贅沢な「大グルメフェスティバル」へと完全に昇華され、夕暮れに向けて最高潮の盛り上がりを見せていくのだった。




