71 第15章:1万の大軍、完全沼らせ撃破
第15章 第1節
北方の静かな廃村――いまや全宇宙の怠惰と極楽の頂点を極めるリゾート特区『温泉こたつ庵』。
そこに突如として押し寄せた、人類と魔族の合同討伐軍「総勢1万名」は、前魔王ルシアの放った究極の受動的オーラ『全戦意蒸発』と、村の総力を挙げて構築された「大衆の欲望を具現化した究極の屋台街」、そして極上のアルカリ温泉のコンボの前に、ものすごい勢いで全員が骨抜きにされていた。
ブラッド特製の濃厚豚骨ラーメンを啜り、レオン特製の極上醤油ラーメンに涙し、ルシアが注ぐキンキンに冷えた生ビールを喉に流し込んだ兵士たちは、もはや「洗脳基地を叩き潰す!」という殺気を完全に忘却し、あちこちで「うめえ!」「この温泉、肌がトロトロになるぞ!」と歓声を上げながら極楽の宴を謳歌していた。
人間と魔族の垣根なんてものは、美味しいご飯と温かいお風呂の前では秒速で消滅し、かつての敵同士が仲良く肩を組んで乾杯の音頭を取っている。
――しかし、そんな「全宇宙で最も平和で贅沢な怠惰の楽園」の只中にあって、いまだにかつての「組織の論理」「かつてのプライド」、そして「無駄な義務感」にしがみつき、一人だけ血相を変えて激怒している哀れな男たちがいた。
元・剣聖のレイガーと、新魔王軍のクーデターリーダー・バザルトである。
二人は、周囲の兵士たちがビールジョッキを片手にキャッキャと楽しそうに温泉の感想を語り合っている広場の真ん中に立ち、真っ赤な顔をして怒鳴り散らしていた。
「貴様らっ……!! 一体、何をやっておるのかーーっ!!」
レイガーはかつての誇り高き剣聖の威厳を無理やり引っ張り出し、愛用の(しかしすっかり手入れをサボって埃をかぶった)聖剣の柄を叩きながら絶叫した。
「忘れたのか! 我々は王国の名にかけて、あの『洗脳の巣窟』を木端微塵に粉砕し、囚われた仲間たちを奪還するために進軍してきたはずだぞ! なぜ、敵の首謀者が作ったラーメンを食い、敵の元魔王が注いだビールを飲み、あまつさえ敵の温泉に浸かって『最高だぁ』などとくつろいでいるのだ! 目を覚ませ! 貴様らは今、恐ろしい精神汚染の邪法にかかっているんだーーっ!!」
その隣で、バザルトも全身の漆黒の重装甲をガチャガチャと荒々しく鳴らし、部下の魔族兵たちに向けて激昂した。
「そうだ! 我々新魔王軍の誇りはどうした! ガロア様を救い出し、人間どもに恐怖を叩き込むためのクーデター軍はどうなったのだ! なぜ、我が軍の精鋭たちが人間どもの作った焼き鳥の塩加減について『この絶妙な焼き加減は職人の技だ』などと感嘆し合っているのだ! 武器を取れ! 戦闘態勢に戻るんだーーっ!!」
二人のその必死の、そしてあまりにも時代遅れの絶叫は、秋の心地よい風に乗って村中に響き渡った。
響き渡った――のだが、周囲の反応はあまりにも冷淡で、そして残酷なものだった。
「…………」
広場でキンキンに冷えた特性ドリンクを片手にインフィニティチェアでくつろいでいた王国のベテラン騎士は、レイガーの絶叫をチラッと横目で一瞥すると、面倒くさそうに耳を指でほじった。
そして、吐き捨てるようにこう言い放った。
「――うるせえな。今、最高にいい気分でビール飲んでんだよ。邪魔すんじゃねえよ、元・剣聖サマ」
「なっ……!?」レイガーが言葉を失う。
さらに、近くの露天風呂から上がってきたばかりの新魔王軍の魔族兵も、バザルトの方をジロリと睨みつけ、フンと鼻を鳴らした。
「おい、バザルト。お前、さっきから一人で大声出して何がしたいんだ? そんなにカロリー消費してたら、せっかくのブラッド特製鴨南蛮うどんの美味さが半減するぜ。いいからお前もその鎧脱ぎ捨てて、早く湯船に入れよ。お湯、めちゃくちゃ気持ちいいぞ」
「ば、馬鹿な……っ! お前もか、我が軍の精鋭が……! 人間と馴れ合い、敵の温情に骨抜きにされるなど、魔族の恥だとは思わんのか……!」
バザルトが顔を真っ青にして詰め寄ると、その魔族兵はあきれ果てたように肩をすくめた。
「恥? はっ、何を言ってるんだ。毎日暗い暗い魔界の城で、いつ暗殺されるか怯えながら乾いた干し肉をかじって、上官の顔色を窺って生きる人生の方が、百倍恥ずかしかったわ! 俺はもう決めたんだ。今日からこの村の『温泉警備隊』に転職する。給料はミカン食べ放題と毎日サウナで十分だ!」
「なっ……なんだと……!?」
完全無視。
それも、怒り狂って反論されるよりもはるかに残酷な、「完全なる呆れと、冷め切った冷笑を伴う無視」であった。
レイガーとバザルトは、自分たちが必死になって叫んでいた「正義」や「組織の誇り」というものが、この村に漂う極上の温もりと美味しいご飯の圧倒的な魔力の前に、いかにちっぽけで、いかに価値のないものだったのかを、突きつけられる思いだった。
「どうする……レイガー……」
バザルトはすっかり気力を失い、巨大な魔導大剣を杖のように地面につきながら、かすれた声で呟いた。
「我が軍の兵士たちは……もう誰も私たちの命令なんて聞いてくれん……。みんな、あの謎のウマいラーメンと温泉に魂を売り渡してしまった……」
「お、おれに聞くな……」
レイガーもまた、足の力がすっかり抜けてしまい、その場にヘナヘナと座り込んでいた。
「俺の剣技も、王国の英雄としての名声も……すべてあの村の『極楽フェス』の前に完全に粉砕された……。もう、どうでもいい……」
かつて世界を揺るがした人間の英雄崩れと、魔界の過激派リーダーは、その場で完全に戦闘意欲を喪失し、ただの「村の隅でしょんぼりする敗者」へと成り下がってしまったのだった。
その様子を、村の中央のインフィニティチェアから眺めていたレオンは、ほうじ茶の湯呑みをコツンと机に置き、クスリと笑った。
「ほらね。怒鳴って世界を支配しようとしたって、お腹が空いてて体が冷えてる奴には絶対に勝てないんだよ。大事なのは、武力じゃなくて『どれだけ美味しいご飯と温かいお風呂を提供できるか』ってことさ」
「まったくその通りねぇ」
ルシアはキンキンに冷えた生ビールのジョッキをもう一口ゴクッと飲み干し、満足げに微笑んだ。
「あんなにイキって突撃してきた奴らが、最後には全員『この村に骨を埋めます』って顔になるんだから、人間の欲望って本当に素直で可愛いものだわ」
大賢者も、自動麻雀卓風ボードゲームの牌をシャカシャカと混ぜながら、愉快そうに声を上げた。
「ふぉっふぉっふぉ! 怒鳴るだけの指導者など、極上のサウナの前にはただの邪魔者でしかないということじゃな! さあ、そこの元・剣聖とやらの若造も、くよくよせずにこっちに来て麻雀の一戦でもどうじゃ? 勝ったら剥きたてミカンを進呈してやるぞい!」
村中からは、相変わらず「乾杯!」「このラーメン美味すぎんだろ!」「最高のととのいだぁぁーーっ!」という、全宇宙で一番平和で幸せな歓声ばかりが響き渡っている。
戦いの二文字は綺麗さっぱり消え去り、そこにあるのは、温かなお湯と、美味しいグルメと、最高の仲間に囲まれた極上のリラクゼーション空間だけだった。
かつて世界を揺るがした1万人の大軍勢、そしてそのリーダーたちまでもが、レオンたちの作り上げた「究極の環境」の前に、抗う術もなく、最高に幸せのかたちで完全に平定されてしまったのだった。




