70 第14章:『第一回・温泉スローライフフェスティバル』開幕
第14章 第5節
北方の静かな廃村――いまや全宇宙の怠惰と極楽の頂点を極めるリゾート特区『温泉こたつ庵』。
そこに「人類と魔族の合同討伐軍、総勢1万名が洗脳基地を叩き潰すために進軍中」という前代未聞の物騒な報せがもたらされてから、事態は驚天動地の展開を見せていた。
前魔王ルシアの放った究極の受動的オーラ、名付けて『全戦意蒸発』の魔力と、村の総力を挙げて構築された「大衆の欲望を具現化した究極の屋台街&極楽サウナ」のコンボの前に、意気軒昂に突撃してきた1万名の兵士たちの頭からは、「戦争」「復讐」「洗脳の破壊」といった殺伐とした二文字が、一瞬にして綺麗さっぱり蒸発してしまったのである。
武器を地面に投げ出し、あるいはポカンと口を開けたまま立ち尽くしていた連合軍の兵士たちは、鼻腔をこれでもかと刺激する濃厚な豚骨ラーメンの香ばしい匂いと、炭火でジュージューと焼かれる焼き鳥の芳醇なアロマに引き寄せられるように、まるで磁石に引き寄せられた鉄粉のごとく、次々と村の入り口へと吸い寄せられていった。
「おい、待て……! 本当にこれでいいのか……? 私たちは王国の名にかけて――いや、待てよ、あのスープの浮いた背脂の輝き、尋常じゃなく美味そうじゃないか……?」
「馬鹿野郎、悩んでる暇があったら列に並べ! 目の前でチャーシューが売り切れるぞ!」
人間と魔族の垣根など、美味しいご飯とキンキンに冷えたビールの前では秒速で消滅した。お互いに「やあ、そっちも戦うの疲れたろ?」「ああ、すっかり足がパンパンでさ」と肩を組み合い、すっかり仲良く「極楽フェス」の客と化してなだれ込んでくる。
そんな、かつての殺伐とした戦場が「日本一賑わう大繁盛の観光地」へと一変した村の入り口。
そこにそびえ立つ巨大なヒノキの歓迎ゲートの真下で、今や「温泉こたつ庵・おもてなし接待部隊」のツートップとなった二人の男が、満面の笑みで立っていた。
一人は、全身に特製のハッピを纏い、髪の代わりにふかふかのサウナハットをスタイリッシュに被った、新魔王軍最強の武闘派将軍だった男――ガロア。
もう一人は、清潔感あふれる白いコックコートをビシッと着こなし、その整った顔に涼やかで完璧な接客スマイルを貼り付けた、元・裏社会最強の暗殺者――ブラッドである。
「いらっしゃいませーーっ!! ようこそ『温泉こたつ庵』へ! お疲れ様でしたぁーっ!」
ガロアはかつての鬼神の如き威圧感を完全に封印し、テーマパークのベテランキャストばりの爽やかな大声で、両手を大きく広げて1万の客たちをお出迎えした。
「長旅の冷えた体には、まずは極上のサウナと水風呂! そして湧き水エリアに新設された『天下泰平の湯(巨大野外露天風呂)』がオススメでーーす! 汗を流した後は、あちらの屋台街で自慢の背脂豚骨ラーメンとキンキンに冷えた生ビールをご用意しておりますので、どうぞご自由におくつろぎくださーーい!」
その横で、ブラッドもまた、上品かつ完璧な腰の低さでぺこりと頭を下げた。
「皆様、本当によくぞご無事で到着されました。当村自慢の『無限おかわり誘発型うどん』および『発酵バター乗せ神級焼きイモ』は、ただいま焼き立てとなっております。受付カウンターにて、サウナハットと特製館内着をお受け取りの上、どうぞごゆっくり極上の怠惰をご堪能くださいませ」
元・最強の武闘派将軍と、元・最強の暗殺者が並んで「いらっしゃいませー!」とニコニコ笑顔で頭を下げている光景は、外の世界の人間が見たら間違いなく「世界が滅びる前兆の幻覚」だと確信するレベルのシュールさだったが、当の本人たちは心の底からこの接客を楽しんでいた。
「お、おい……あそこに立ってるのって、ガロア様じゃないのか……?」
連合軍の最前線で呆然と立ち尽くしていた新魔王軍の過激派リーダー・バザルトが、信じられないものを見るように目をこすりながら呟いた。
「我が軍の最強将軍が……あんな楽しそうに『サウナはこちらでーす!』って案内しているだと……? 一体、あの村で何があったというんだ……!」
その隣で、元・剣聖のレイガーもガクガクと膝を震わせながら、目の前の光景に絶句していた。
「うそだろ……あんなに殺気立っていた俺たちの軍勢が、たった数分で全員『ただの温泉旅行客』に成り下がっている……。誰も剣を抜かない。誰も怒鳴らない。みんな、めちゃくちゃ楽しそうにラーメンの屋台の列に並んでやがる……!」
レイガーとバザルトは、自分たちが「洗脳基地を叩き潰す!」と意気込んで持ってきた武器や魔導書を、まるで邪魔な荷物のように脇に抱えたまま、完全に波に乗り遅れた迷子のようになって立ち尽くしていた。
「おや? そこのお客様、お二人とも大変長旅でお疲れのご様子ですね!」
そこに、満面の笑みを浮かべたガロアが、トコトコと軽快な足取りで近づいてきた。
「あっ……ガ、ガロア様……っ!」とバザルトがビクッと身構える。
しかし、ガロアは昔の恐ろしい上官としての顔など微塵も見せず、まるで高級ホテルの名物支配人のような温かい笑顔で、二人の肩をガシッと力強く抱き寄せた。
「おいおい、そんなに堅い顔するなって! お前たちも、王都や魔界の面倒くさいプレッシャーに耐えかねて、ここへ遊びに来たんだろ? よーし、よくぞ来てくれた! ちょうど今、サウナのロウリュウが始まるところだ! まずはそこで思いっきり汗を流して、それからキンキンに冷えた特性ドリンクでキメてこい!」
「えっ……いや、私たちはその、討伐軍として……」
「討伐? なんだそりゃ? そんな野暮な話は、美味しいラーメンを食べてこたつに入ってからいくらでも聞いてやるよ! さあさあ、どうぞどうぞ!」
ガロアの圧倒的なホスピタリティと、拒絶を許さないほどの爽やかな笑顔の前に、レイガーとバザルトは反論する気力を完全に奪われ、ズルズルと流されるように村の中へと押し込まれていった。
村の中央広場では、すでに数千人の元・兵士たちが、人間も魔族も関係なく長椅子に腰掛け、お互いにラーメンの丼を突き合わせながら「お前、どこの部隊だ?」「私は王国の第3騎士団だったが、もう辞めた!」と楽しそうに語り合っていた。
その一角では、王国最高知性の大賢者が、自動麻雀卓風ボードゲームの周囲に集まった元・兵士たちを相手に、得意げにルールの解説を行っていた。
「ふふん、よく聞けい! 麻雀とはな、人生の機微と確率論が絶妙に交差する最高の知的遊戯じゃ! さあ、初心者のそこのお前、まずは牌の切り方から教えてやろう!」
さらにその隣の特設こたつ席では、元聖女マリアが、相変わらず神業的な手つきでミカンの薄皮をスルスルと剥きながら、周囲の客たちに次々と配っていた。
「はーい、そこのお疲れの兵士さん、剥きたて甘々の完熟ミカンですよー! 酸味がなくてすっごく美味しいから、元気出してねー!」
「うわぁ……元聖女様が剥いてくれたミカン……なんか、一口食べただけで人生の悩みが全部吹き飛ぶ気がする……!」
村のどこを見渡しても、血を流す者はおろか、嫌な顔をしている人間など一人もいなかった。
そこにあるのは、極上のグルメと、極上の温もり、そして「今、この瞬間を最高にダラダラ楽しむ」という絶対的な平和の空気だけだった。
村の特設ステージのインフィニティチェアで、この光景をまったりと眺めていたレオンは、手元のほうじ茶の湯呑みを傾け、ふうっと満足げに息をついた。
「いやぁ、うまくいくもんだねぇ」
レオンがポツリと呟くと、隣に立っていたルシアが、キンキンに冷えた生ビールのジョッキをカチンと彼の湯呑みに軽く当てて笑った。
「でしょ? 私の『全戦意蒸発』と、ブラッドやガロアたちの『圧倒的おもてなし攻撃』のコンボの前には、どんな大軍だって一網打尽よ。……さて、レオン。これで王国の偉い人たちも、新魔王軍の残党も、もう誰も私たちを邪魔しに来なくなるわね」
「そうだね。これだけ盛大にフェスをやっちゃったら、もうみんなこの村の快適さに骨抜きになって、二度と元の殺伐とした生活になんて戻れなくなるだろうしさ」
レオンは空を見上げた。
雲一つない秋晴れの空の下、村中から聞こえてくるのは、人々の笑い声と、湯気と、美味しい料理の香ばしい匂いばかりだった。
世界を救う必要なんて最初からなかったし、魔王を倒して世界をどうこうする必要もなかった。
ただ、自分が心地よいと思える環境を作り、大切な仲間たちと美味しいご飯を食べ、こたつに入ってくだらないおしゃべりをする――それだけで、世界は十分すぎるほど平和で、最高に贅沢な場所になるのだ。
「さあて、じゃあ私も、そろそろみんなと一緒に特大の鴨南蛮うどんでも啜りに行きますか」
レオンは伸びをしながら立ち上がり、ポカポカと温かいこたつと、賑やかなフェスの会場へと、のんびりと歩き出したのだった。




