69 第14章:『第一回・温泉スローライフフェスティバル』開幕
第14章 第4節
北方の静かな廃村――いまや『温泉こたつ庵』および「食とリラクゼーションの極楽大テーマパーク」へと変貌を遂げたその入り口。
そこに、かつての世界を揺るがすはずだった人類と魔族の合同討伐軍、総勢1万名が到着した。
先頭に立っていた元・剣聖レイガーと、新魔王軍のクーデターリーダー・バザルトは、目の前に広がる光景を前に、乗っていた馬のたぐみを手放しそうになりながら、ただポカンと口を開けて固まっていた。
そこにあったのは、おぞましい魔導陣や凶悪な迎撃要塞などではなかった。
香ばしい炭火の煙を上げる焼き鳥の屋台、鼻腔を限界まで刺激する濃厚な豚骨ラーメンの寸胴鍋、そしてその脇で楽しそうにウチワを仰ぐ元最強将軍ガロアの笑顔。さらに、ゲートの脇には「温泉こたつ庵・大感謝グルメ&サウナフェスティバル」と書かれた巨大なヒノキの看板が、のんびりと風に揺れていた。
「なっ……なんだこれ……? 一体、どういうことだ……?」
バザルトは全身の漆黒の重装甲をガチャガチャと鳴らしながら、混乱のあまり頭を抱えた。
「我々は……『洗脳の巣窟を木端微塵に粉砕し、仲間を奪還する』ために、1万の大軍を率いて突撃してきたはずではなかったのか……!? なぜ、村の入り口がまるで大繁盛している縁日のようになっているのだ……!?」
レイガーもまた、青ざめた顔で冷や汗を拭いながら、目の前の光景を受け入れられずにブルブルと震えていた。
「罠だ……! これはきっと、人間の脳をトロトロに溶かして戦闘意欲を奪うための、前代未聞の高度な精神汚染の幻覚魔法に違いなかっ……!」
レイガーがそこまで叫んだ、まさにその時である。
村の中央広場、特設された屋台街の真ん中にいた一人の少女が、ふっと柔らかく、しかし圧倒的な存在感を放つ微笑みを浮かべて、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
それは、かつて魔界の頂点に君臨し、世界を恐怖のどん底に陥れたはずの前魔王――ルシアだった。
彼女は、頭に可愛い「温泉こたつ庵」のロゴが入った手ぬぐいを巻き、手にはキンキンに冷えた生ビールのジョッキを一つ、そしてもう片方の手には、焼き立ての熱々な焼き鳥を一本持っていた。
ルシアは1万の兵士たちの威圧的な殺気などどこ吹く風とばかりに、トコトコとゲートの最前線まで歩いてくると、ふうっと小さく息をつき、こう言い放った。
「――はい、そこまで。長い道のり、本当にお疲れ様。とりあえず、難しい顔して剣を構えるのはそこまでにして、まずはこのキンキンに冷えたビールと焼き鳥で、乾杯でもしようよ」
その瞬間であった。
ルシアの全身から、かつて魔王として君臨していた頃の圧倒的な「威圧感」ではなく――しかしそれをはるかに上回る、全宇宙のすべての戦闘意欲と殺気、焦燥感を一瞬にして蒸発させる究極の受動的オーラ、名付けて『全戦意蒸発』の魔力が、目に見えない甘い香りとともに、広場全体へとふわりと解き放たれた。
びゅぅぅぅ……と、秋の心地よい風が吹き抜ける。
その風を浴びた瞬間、最前線に立っていた新魔王軍の精鋭魔族兵たちの手から、持っていた魔導大剣が「カラン……」と無力な音を立てて地面に落ちた。
「……え?」
兵士が自分の手元を見下ろす。
さっきまで「洗脳基地をぶっ潰す!」とあれほど血走った目をしていたはずの彼の脳内から、戦闘、復讐、組織のプレッシャー、王国の命令、魔界のクーデターといった、人生のあらゆる面倒くさい概念が、まるで春の雪のようにスルスルと溶けて消えていくのを感じた。
頭の中に残ったのは、ただ一つ。
――「なんか、めちゃくちゃビールが美味しそうだな……」という、原始的かつ圧倒的な食欲の衝動だけだった。
「おい、どうしたんだよ! 武器を拾え! 敵だぞ!」
後ろにいた別の魔族兵が慌てて仲間の肩を揺さぶったが、その揺さぶられた兵士は、すっかりトロンとした緩んだ目をして、こう呟いた。
「いや……だってさ……見てみろよ、あの焼き鳥の焦げ目……。めちゃくちゃ美味そうじゃないか……。俺、もう戦うの面倒くさいから、ちょっと塩味一本もらってくるわ……」
「馬鹿な!? お前、正気かーーっ!?」
しかし、その叫びも無駄だった。
感染は、爆発的なスピードで、後ろに控えていた1万の軍勢へと瞬く間に広がっていったからだ。
「あれ……? なんか、急に足の疲れがドッと出てきたぞ……」
「そういえば、ここ数日まともに温かい飯を食ってなかった気がする……」
「待て、待て待て! 鼻をかすめるこの豚骨ラーメンの香ばしい匂いは何だ……? 私の胃袋が『今すぐあの背脂を啜れ』って命令してきているぞ……っ!」
ざわざわ、ざわざわ……と、1万の兵士たちの間で巻き起こっていた殺伐とした議論が、いつの間にか「どの屋台の列に並ぶべきか」という極めて平和な議論へとすり替わっていった。
「い、一体、何が起きているんだ……!?」
レイガーは顔面を真っ青にし、自分の手でしっかりと剣を握りしめようとしたが、彼の足元もまた、あまりの脱力感にカクカクと震え始めていた。
「俺の……私の剣技が……王国のために戦うという高潔な騎士の誇りが……心の奥底からフワフワと抜けていく……! なんだこの魔法は……! 攻撃魔法ですらない、もっとこう、人間の尊厳を根底からお気楽に変えてしまうような、恐ろしい精神汚染の特大デバフスキルだ……ッ!」
その隣で、バザルトも巨大な魔導大剣を杖のように地面につきながら、よろよろとバランスを崩していた。
「ぐぬぬ……! 我が新魔王軍のプライドが……ガロア様を取り戻すという熱い怒りが……『でも、サウナに入って特性ドリンク飲んだら全部どうでもよくね?』という悪魔の囁きにかき消されていく……! くそっ、なんて恐ろしい洗脳だ……! 意志の力が抗いきれん……!」
ルシアは、そんな1万人の戦士たちがみるみるうちに「ただのお腹を空かせた観光客」へと堕落していく様子を、腕を組んでフフンと誇らしげに眺めていた。
「ふふん、甘いわね。人間も魔族も、お腹が減って疲れてる時に、極上のグルメと冷えたビールの誘惑に勝てる生き物なんて、この世界には一人もいないのよ」
ルシアはそう言うと、手元にあったキンキンに冷えた生ビールのジョッキをゴクゴクと美味しそうに飲み干し、「プハァーッ! やっぱりサウナ上がりの……ってまだサウナ入ってないけど、この瞬間のビールは最高だわ!」と満面の笑みを浮かべた。
そのルシアの笑顔を見た瞬間、最前線にいた兵士の一人が、ついに我慢できなくなって一歩前に踏み出した。
「……あの、すいません……!」
「おっ、いらっしゃい!」とルシアが明るく返す。
「その……そこの、塩味の焼き鳥一本と……キンキンに冷えたビールを、私にも一杯……いただけますでしょうか……! お金は、私の持っている全財産の銀貨を払いますから……!」
その兵士の言葉を皮切りに、ダムの決壊の如く、1万人の軍勢からの注文の嵐が巻き起こった。
「俺もラーメン食べたい! 背脂マシマシで頼む!」
「私はかき氷のマンゴー練乳掛けをくれ! 頭がキーンってなりたい!」
「待て、まずは野外大露天風呂のタオル貸出所はどこだ!? 長旅で凝り固まった肩を白樺の湯で溶かしたいんだ!」
――戦闘態勢は、開始からわずか3分で完全に消滅した。
人類と魔族の合同討伐軍は、武器を完全に投げ捨て、あるいは地面に突き立てたまま、我先にと屋台の列に並び始め、お互いの陣営の垣根すら完全に忘れ去って「おい、そこ割り込むなよ」「すまない、一緒に相席しようぜ」と仲良く肩を組み合う大円団(?)へと突入していたのである。
「う、嘘だろ……? 俺たちの1万の軍勢が……たった一人の少女の笑顔と、焼き鳥の匂いだけで、完全に制圧されてしまった……?」
レイガーは自分の持っていた剣を取り落とし、そのままガクッと膝をついて天を仰いだ。彼の頭から、「王国の栄光」も「レオンへの復讐心」も、綺麗さっぱり跡形もなく消え去っていた。
バザルトもまた、兜をガチャンと地面に脱ぎ捨て、大きく深呼吸をした。
「……まあ、よく考えたら、ガロア様が毎日あんな楽しそうに薪を割って暮らしている理由が、今なら痛いほど分かる気がする……。あんな美味そうな匂いを毎日嗅がされたら、誰だって魔王軍の仕事なんか辞めたくなるわな……」
すっかり戦意を喪失し、むしろ「早く極楽の温泉とこたつに入りたい」という強烈な好奇心に支配された1万の元・兵士たちは、もはや侵略者ではなく、ただの「大量の観光客ご一行様」と化して村になだれ込んでいった。
村の特設ステージのインフィニティチェアから、この歴史的瞬間の一部始終をまったりと眺めていたレオンは、ほうじ茶の湯呑みをコツンと机に置き、ふっと穏やかに笑った。
「ほらね。戦わなくても、美味しいご飯と極楽の環境があれば、大体の争いは自然と解決するんだよ」
ブラッドが恭しくお茶を注ぎ直し、ガロアが「さすがレオン様、血を流さずに世界を平定するとは、まさに聖人のお言葉ですな!」と豪快に笑った。
こうして、世界を揺るがすはずだった「人類・魔族合同討伐軍による洗脳特区の破壊計画」は、ルシアの放った『全戦意蒸発』の魔力と、村の総力を挙げた禁断のグルメ・リゾート攻勢の前に、音を立てて盛大に、そして最高に平和に崩壊したのだった。
村中から聞こえてくるのは、戦いの怒号ではなく、「乾杯!」「このラーメン美味すぎんだろ!」「最高のととのいだぁぁーーっ!」という、全宇宙で一番平和で幸せな歓声ばかりであった。




