60 第12章:全員まとめてだらだら地獄(極楽)
第6章 第5節
北方の山あいにひっそりと佇む、かつての廃村――いまや『温泉こたつ庵』および世界最高峰の怠惰特区として知られるその場所は、秋の深まりとともに完璧なまでの静けさと、この上なく香ばしい出汁と薪の匂いに包まれていた。
古民家の広間に設えられた、レオンのパッシブスキル『最高環境創出』によって奇跡的な温度調整がなされている特大の木製こたつ。その周りには、今やこの村の住民(あるいはスタッフ、あるいは永住研究者)となった面々が、まるで家族のようにすっぽりと足をつっこみ、思い思いの体勢でくつろいでいた。
こたつの特等席の真ん中には、山盛りに積まれたブラッド特製の「神級ポテトチップス」の皿と、マリアが丹精込めて白いスジを一本残らず剥き取った美しい完熟ミカンの大皿、そして湯気の立つ熱々ほうじ茶の入った湯呑みがずらりと並んでいる。
「いやぁ、まさか我が人生の晩年に、このような高度な確率的遊戯とミカンの糖度に関する学術的検証に没頭する日々が訪れようとはな……。人生、何が起きるか分からんものじゃい」
白髪と長い髭を揺らしながら、王国の最高知性である大賢者は、ふかふかの座布団に深く背中を預け、満足げに一房のミカンを口に放り込んだ。その横では、元魔王ルシアが「大賢者、そこ私のツモ牌隠してるでしょ。ちょっと手退けてよ」と、面倒くさそうにぷくっと頬を膨らませている。
そのすぐ隣、こたつの反対側で、すっかりフカフカのサウナハットを浅く被りながら真剣な顔でミカンの薄皮を剥いているのは――かつて世界を震え上がらせた聖女マリアであった。
「ちょっとルシア、そんなに急かさないでよ。今、大賢者様の次の局に備えて、最高級に口当たりの滑らかなミカンを量産しているんだから。ほら、口を開けて、あーん」
「ん……もぐもぐ……。あ、これ美味しい。酸味が少なくて、糖度のバランスが絶妙だわ」
マリアは、かつての王都の聖堂で気高い神聖奇跡を放っていたとは思えないほど、すっかり板についた「専属みかん剥き係」の顔つきで、ニコニコと微笑みながら次々とミカンを解体していく。
王国の重責も、世界のハードモード化に対するプレッシャーも、日々の過酷な聖職のストレスも、このこたつの温もりとミカンの甘酸っぱさの前に、すべて綺麗さっぱり霧散していた。彼女の心には今、何一つ曇りがない。ただ「目の前のみかんをいかに美しく剥くか」という、究極に平和でどうでもいい幸福感だけが満ち満ちていた。
そんな和やかな広間の隅では、元・裏社会最強の暗殺者であり、現在は「温泉こたつ庵」専属のうどん料理長代行および料理担当助手であるブラッドが、穏やかな笑みを浮かべながらお茶のおかわりを配って回っていた。
「皆様、本日の夕食には、サウナ上がりの体に染み渡る特製『黄金出汁の鴨南蛮うどん』と、昨夜からじっくり焼き上げた『発酵バター乗せ神級焼きイモ』をご用意しておりますので、どうぞお楽しみに」
「おおっ! 鴨南蛮か! ブラッドのやつ、最近めきめきと出汁の腕を上げてやがるな!」
広間の縁側の近くで、新魔王軍最強の武闘派将軍だったガロアが、いつの間にかスタッフ用の特製半纏を羽織りながら、ご機嫌な様子で声を上げた。彼は今日一日、村の裏手で極上の白樺の丸太を完璧に割り終え、すでに「朝ウナ・水風呂・外気浴・特性ドリンク・豚キムチ丼」の4段コンボをキメて「完ち」状態に達している。
「ガロア、あんたさっきから薪割りばっかりしてないで、こっち来てミカンでも食べたらどうなの? ほら、剥いてあげるからさ」
マリアが気さくに声をかけると、ガロアは「おっ、すまねえな元聖女殿!」と豪快に笑いながら、巨体を無理やりこたつの端にねじ込んだ。
元暗殺者、元魔王軍将軍、王国の最高知性、元聖女、そして元魔王――。
本来であれば、世界の歴史の表舞台や裏舞台で決して交わるはずのない、どころか殺し合いを演じてもおかしくない最高峰の面々が、今や一つのこたつを囲み、まるで仲の良い家族のようにくだらない雑談を交わしながらミカンを貪っている。この世のいかなる権力者も、いかなる神の啓示も、この「こたつとミカン」の絶対的な平和の魔力の前には、ただひれ伏すしかなかった。
そして、その光景をこたつの隅から少し離れて、まったりと眺めていた男がいた。
元勇者であり、無自覚のパッシブスキル『最高環境創出』によってこの世界最高の怠惰空間を作り出し、すべての強者たちを次々と無力化(懐柔)してしまった張本人――レオンである。
レオンは、自分の湯呑みから立ち上るほうじ茶の湯気をぼんやりと見つめながら、小さく息をついた。
「いやぁ……」
レオンがポツリと呟くと、広間の全員の視線が一斉に彼へと集まった。
「どうしたのよレオン、急に真面目な顔して」
ルシアがみかんの房を口に放り込みながら首を傾げる。
「ううん、何ていうかさ……」
レオンはふっと穏やかに笑い、こたつの布団をキュッと引き上げた。
「昔、勇者パーティにいた頃はさ、『世界を救わなきゃいけない』『魔王を倒さなければ平和にならない』って、毎日毎日必死になって走り回ってたんだよね。休む暇もなくて、すり減って、最後には追放されてさ」
その言葉に、元聖女であるマリアが少しだけ気まずそうに目を伏せたが、レオンはすぐに優しい笑みを浮かべて続けた。
「でもさ、こうして村に出てきて、気の抜けるような仲間と出会って、サウナに入って、美味しいご飯を食べて、みんなでこうしてくだらない話をしながらミカンを食べてたらさ……」
レオンは目の前に広がる光景をゆっくりと見渡した。
薪割りの音が遠くで心地よく響き、こたつの中からは温かなぬくもりが伝わってきている。誰もが自分の居場所を見つけ、誰も争うことなく、ただ純粋に「今、この瞬間」を最高に楽しんでいる。
「世界がどうとか、魔王軍がどうとか、王国の偉い人たちがどうとかって、実はどうでもいいことだったんだなって思ってさ。……いま、ここにある日常こそが、俺にとっての本当の『世界平和』なんじゃないかなってね」
レオンのその飾らない、しかしあまりにも本質を突いた言葉に、広間は一瞬、温かな沈黙に包まれた。
「……まったくじゃな」
大賢者がふんと鼻を鳴らし、しかしその目元を少しだけ緩ませて湯呑みを傾けた。
「複雑怪奇な魔法陣の理を解き明かすよりも、目の前にある極上の温もりと、この絶妙な甘みのミカンを味わうことの方が、はるかに真理に近いというわけか。……小僧、お前を侮っていたわい」
「でしょ? 私の選んだ男だもん、これくらい当然よ!」
ルシアがなぜか得意げに胸を張ると、ガロアが「さすが前魔王様、目の付け所が違いますぜ!」と大笑いした。
「ふふっ……本当に、そうよね」
マリアは自分の手に残ったミカンの皮を綺麗にまとめながら、心からの晴れやかな笑顔を咲かせた。
「王都で毎日窮屈なドレスを着て、偽りの聖女を演じていたあの頃よりも、この村でみんなのミカンを剥いている今の方が、何百倍も、何千倍も幸せだわ……」
外の世界では、新魔王軍の本隊が勘違いから勝手に自滅し、王国の聖堂は完全な機能停止に陥り、世界のダンジョンは相変わらず激しいハードモードの嵐に巻き込まれていた。政治家たちは頭を抱え、勇者パーティの残骸たちは暗闇の中で互いを責め立て合っている。
しかし、この名もなき廃村の――『温泉こたつ庵』の古民家の間だけは、そんな世界の喧騒から完全に切り離された、永遠の楽園のように穏やかな時間を刻み続けていた。
「さぁて、暗くなってきたし、そろそろみんなでボードゲームの続きをやりますか!」
レオンが立ち上がり、自動麻雀卓風ボードゲームのスイッチをポンと押した。
「おおっ、待ってました! 今度こそ私の完全勝利を見せてやるわい!」
「お爺ちゃん、さっきから負け続けてるくせに威張らないの!」
「おい、次の局が終わったら、ブラッド特製の鴨南蛮うどんの時間だぞー!」
「やったあぁぁぁーーーっ!!」
笑い声と、ミカンの皮の弾ける音、そして心地よい湯気に包まれながら、世界で一番シュールで、世界で一番幸せな夜が、今日も静かに幕を開けていくのだった。
――【第2巻 完】――




