58 第12章:全員まとめてだらだら地獄(極楽)
第12章 第3節
王国から単身、決死の覚悟を胸に北方へと旅立ち、魔の廃村へとたどり着いた元勇者パーティの聖女マリア。
彼女は当初、この村を「恐ろしい邪法が渦巻く悪の巣窟」「洗脳された大賢者が囚われている闇の要塞」だと固く信じ込み、聖杖を握りしめて震えていた。
しかし、蓋を開けてみれば、新魔王軍最強の武闘派将軍だったガロアは満面の笑みで薪を割り、王国の最高知性である大賢者はこたつに入って自動麻雀卓風ボードゲームとポテチに熱中し、すっかり骨抜きにされていた。そしてトドメとばかりに、元魔王ルシアから差し出された「神級焼きイモ」に発酵バターをぽとりと落とした禁断の背徳スイーツの前に、彼女の理性は音を立てて崩壊し、頬にイモの欠片をつけたまま美味しいと絶叫する事態になっていた。
さらに、レオンから投げかけられた「嫌なら辞めれば? ここならみかん食ってるだけで誰も怒らないよ」という、悪魔的かつこの上なく甘い囁きによって、マリアの心にあった分厚い鎖は完全に消え去った。長年彼女を縛り付けていた「聖女としての義務感」「完璧でなければならないという強迫観念」「世間の目を気にするプレッシャー」のすべてが、こたつのポカポカとした温もりと、美味しい食べ物の魔力の前に、まるで春の雪のように溶け去っていったのである。
涙を流し、これまでの孤独や苦しみをすべて吐き出したマリアは、今や見違えるほどすっきりと晴れやかな顔をしていた。
「今まで私は、王国の聖女として世界を救うための祈りを捧げ、神聖な奇跡を起こし、民衆の前に立って完璧な笑顔を振りまくことだけを求められて生きてきたわ。でも、そんなお堅い仕事はもう全部おしまい! これからは、この極上のこたつ空間の平和を守るため、そしてみんなが美味しくみかんを食べられるように、白くてすべすべしたスジを一本残らず綺麗に剥き取る『専属みかん剥き係』として、この村で生きていくのよ!」
マリアの声には、かつての高慢さや気取りは微塵もなく、あるのは「これからサボりまくるぞ」という清々しいまでの開き直りと、底知れぬやる気(謎の方向)だけだった。
「いや、みかんを剥くのにそこまで熱弁を振るわれても困るんだけどさ……。つーか、そんな役職、この村のどこにも存在しないし、給料も出ないよ?」
レオンが苦笑いしながら首を横に振る。
「お金なんていらないわ! 私には、このこたつと、毎日食べられる焼きイモと、たまに出るブラッドの特製グルメがあれば、それだけで十分生きていけるもの!」
マリアはそう言うと、手元にあったみかんの皮をキュキュッと器用な手つきで剥き始めた。
プロの聖女として幾多の神聖儀式をこなしてきた彼女の手先は、なぜかみかんの薄皮を傷つけず、白いスジを完璧に取り除く作業においても神業的な精密さを発揮した。
スルスル……と、綺麗に剥き終わったオレンジ色の美しい果肉が、手のひらの上にポンと現れる。
「ほら見てレオン! 見てよルシア! これぞ、聖女の祈りと浄化の奇跡を応用した、名付けて『絶対完熟・完全無欠のみかん剥きマジック』よ!」
マリアはまるで世界遺産でも発掘したかのようなドヤ顔で、剥きたてのみかんを差し出した。
ルシアはそのみかんをじっと見つめ、やがてフッと吹き出した。
「あははっ! なによそれ! 王国の聖女様が、村の縁側でドヤ顔しみかん剥きを披露するなんて、歴史の教科書に載せたら世界中の神官たちが卒倒するわね!」
「いいじゃないの、面白ければ! ほら、大賢者も食べてみなさいよ、この私が丹精込めてスジを全部取ってあげたスペシャルみかんだから!」
マリアは得意げに、大賢者の前へとそのみかんを差し出した。
大賢者は、目の前にある完璧にスジの取られた美しいみかんをじろりと眺め、ふんと鼻を鳴らした。
「ふん……。王国の最高聖職者が、聖職を放り出して日雇いの『みかん剥き係』に成り下がるとは、世も末じゃな。……まあ、どれどれ、その剥きっぷりとやらの学術的価値を検証してやろう」
大賢者はポテトチップスをつまんでいた手を拭うと、そのみかんの一房を口に放り込んだ。
「――むっ……!?」
大賢者の目が、カッと見開かれた。
スジや苦味の元が一切残っていないため、噛んだ瞬間にフレッシュで濃厚な果汁と甘みが純度100%のまま舌の上で弾け飛ぶ。
「どう……? 美味しいでしょう?」
マリアが期待に満ちた目を向けると、大賢者は気まずそうに目をそらしながらも、ボソッと言った。
「……ふん、まあ、口当たりが滑らかで、不快な引っかかりが一切ないな。……合格じゃ。次の麻雀の時も、私の横でその剥きたてのみかんを供給し続ける係に任命してやろう」
「やった! 大賢者様の専属みかん係ゲットだぜ!」
マリアは両手をパッと広げ、まるで子供のように無邪気に喜んだ。
その様子を、古民家の柱にもたれかかりながら眺めていたブラッドが、爽やかな笑みを浮かべて近づいてきた。
「マリア様、ご入居(?)おめでとうございます。それでは、さっそくですが夕暮れに向けて、村の温泉の薪くべと、夜食用の焼きイモの仕込みをお手伝いいただけますか?」
「おっ、任せてちょうだい! みかん剥きだけじゃなくて、薪割りでも何でもやってあげるわ! 私、今日からこの村の労働者なんだから!」
マリアはすっかりやる気スイッチが入ってしまい、袖をまくり上げてテキパキと動き出した。
その姿は、かつて王城で周囲を威圧していた気高い聖女の面影を完全に脱ぎ捨て、この平和なだらだらリゾート特区の空気に完全に馴染んだ、ただの「元気な村の女の子」そのものだった。
レオンは、その騒がしくも温かい光景を眺めながら、自分のほうじ茶の湯呑みを傾け、ふっと穏やかに呟いた。
「……まあ、肩書きなんてものは、自分が捨てたいと思った時にいつでも捨てていいってことさね」
「ほんとよねぇ」
ルシアもみかんをもう一個手に取りながら、のんびりと頷いた。
「世界がどうなろうと、新魔王軍が勝手に自滅しようと、王国の偉い人たちが頭を抱えてようと、この村が平和で、美味しいご飯とこたつさえあれば、それだけで人生大勝利よ」
遠くの山々に夕日が沈みかけ、空が美しいオレンジ色と紫色のグラデーションに染まっていく。
ガロアの元気な薪割りの音、大賢者が麻雀の牌を混ぜる音、そしてマリアが楽しそうに鼻歌を歌いながらみかんの皮を剥く音が、心地よいハーモニーとなって村全体を包み込んでいた。
王国の聖女としての重責を完全に放り投げ、究極の怠惰と温もりの楽園にたどり着いたマリア。
彼女の新しい、そして世界で一番気楽で幸せな「だらだらライフ」は、こうして名もなき廃村の縁側で、最高に甘いみかんの香りとともに、本格的に幕を開けたのだった。




