55 第11章:引きこもり大賢者と聖女の焦り
第11章 第5節
王国から単身、決死の覚悟を胸に北方へと旅立ち、魔の廃村へとたどり着いた元勇者パーティの聖女マリア。
彼女は当初、この村を「恐ろしい邪法が渦巻く悪の巣窟」「洗脳された大賢者が囚われている闇の要塞」だと固く信じ込み、聖杖を握りしめて震えていた。
しかし、蓋を開けてみれば、新魔王軍最強の武闘派将軍だったガロアは満面の笑みで薪を割り、王国の最高知性である大賢者はこたつに入って自動麻雀卓風ボードゲームとポテチに熱中し、すっかり骨抜きにされていた。そしてトドメとばかりに、元魔王ルシアから差し出された「神級焼きイモ」の圧倒的な美味しさに精神を揺さぶられたマリアは、かつての気高い聖女の面影をどこかへ置き忘れ、頬にイモの欠片をつけたままポロポロと涙をこぼしてしまっていた。
「だっておかしかったのよ……! あなたが追放されてから、世界のダンジョンはどんどん難しくなるし、私たちは毎日国民からのプレッシャーに怯えて、いつ落ちぶれるか分からない恐怖で精神的にボロボロだったのよ……!」
こたつの端で小さく丸くなり、鼻をすすりながら本音を吐き出すマリア。
その姿は、悪の組織に立ち向かう勇敢な聖女というよりは、理不尽な社会に疲れ果てて実家に逃げ帰ってきた若者のそれだった。
そんなマリアの様子を、レオンはほうじ茶の湯呑みを傾けながら、どこか穏やかな眼差しで見つめていた。
「まあ、世の中そんなに頑張ってばかりじゃ疲れるしさ。たまには息抜きも必要ってことだよ。ほら、泣いてないでこっち見なよ」
「……なによ、まだ何か私をからかうつもり……?」
マリアが赤く腫れた目をショボショボさせながら顔を上げると、料理担当助手である元暗殺者のブラッドが、いつの間にかニコニコとした笑顔で新しいトレイを運んできていた。
「いえ、からかっているわけではございません。ただ、先ほどの焼きイモはあくまで『プレーン(素焼き)』の状態にすぎません。本当の真骨頂はここからなのです」
「……は?」
マリアがぽかんと口を開けると、ブラッドはそのトレイの上から、アルミホイルに包まれた熱々の焼きイモをもう一本、マリアの目の前へと恭しく置いた。
そして、その黄金色に輝く湯気を上げる焼きイモの真ん中に、スッと包丁で綺麗に十字の切れ目を入れ、そこに――。
「――『発酵バター』を、贅沢にぽとりと落とさせていただきます」
じゅわぁぁぁぁ……ッ!!
熱を帯びた神級サツマイモの果肉の隙間に、黄金色の濃厚な発酵バターが触れた瞬間、激しい音を立ててトロトロと溶け出し、芳醇な乳脂肪の香ばしい香りがふわりとあたり一面に爆発的に広がった。
それは、人類が発明した数ある美食の組み合わせの中でも、理性の防壁を一撃で粉砕する最凶にして最高峰の禁断のシナジーであった。
「なっ……! これは何なの……っ!?」
マリアの嗅覚が、その香りの暴力に激しく反応した。
先ほど食べたばかりの焼きイモの甘みだけでも十分すぎるほどの衝撃だったというのに、そこに極上の発酵バターの塩気とコクが加わることで、味覚の快楽指数は限界突破しようとしていた。
「ふふふ、いいですか聖女殿。焼きイモというものは、そのまま食べても美味しいですが、熱々のうちに塩気とコクの効いたバターを染み込ませることで、単なる芋から『悪魔的な魅力を放つ禁断の背徳スイーツ』へと進化するのです」
ブラッドはシェフのような誇らしげなドヤ顔で胸を張った。
ルシアも目を輝かせ、自分の分にバターを乗せながら「そうそう、これよこれ! これを食べてから人生観が変わったんだから!」と激しく同意する。
大賢者に至っては、自分の麻雀の手番をそっちのけにして「おい、私のところにもそのバターとやらの追加分を寄こさんか! 科学的検証のために一刻も早く摂取する必要がある!」とガタガタとこたつを揺すっていた。
「そ、そんな……そんな体に悪そうな、背徳的な食べ物を、私が……」
マリアは首を横に振って抵抗しようとした。
しかし、その瞳はすでに、十字の切れ目からじゅわっと溶け出す黄金色のバターの海から一秒たりとも離れなくなっていた。
「ほら、遠慮しないで食べなって。涙も引っ込むからさ」
レオンがバターの染み込んだ部分をスプーンですくい、マリアの目の前へと優しく差し出した。
「……っ……、もう、知らないんだから……!」
マリアは観念したように小さく息を吐き出すと、震える手でそのスプーンを受け取り、バターがこれでもかと絡みついた黄金の果肉を恐る恐る口へと運んだ。
――瞬間。
「んまぁぁぁぁーーーーっ…………!!!?」
マリアの全身に、文字通りの電流が走った。
ねっとりと甘いサツマイモの自然な糖分の上に、発酵バターの絶妙な塩気と濃厚なコクが重なり合い、舌の上でかつてないほどのドラマチックなハーモニーを奏でた。甘さと塩っぱさの無限ループ――いわゆる「甘じょっぱいスパイラル」が、脳の快楽中枢を容赦なく直撃し、彼女の理性のタガを音を立てて完全にぶち壊した。
パサパサ感は皆無で、まるでビロードのように滑らかな食感。鼻腔を抜けるバターの芳醇な香り。後味に残るかすかな塩気が、次のひと口を強制的に欲させる。
「おいしい……! おいしすぎるぅ……っ! 何これ、こんなの反則よ……! イモとバターだけで、どうしてこんなに幸せな気持ちになれるのよ……っ!」
マリアはすっかり涙も引っ込み、両手でスプーンを握りしめながら、夢中になってバター焼きイモをパクパクと頬張り始めた。
先ほどまでの絶望感や、世界のハードモード化に対するプレッシャー、勇者パーティとしてのプライドなどは、この一口のバター焼きイモによって、綺麗さっぱり胃袋の彼方へと消え去っていた。
「でしょ? 美味しいものの前では、みんな平等に無力なのよ」
ルシアは満足げに緑茶を啜り、自分のイモを美味しそうに咀嚼した。
「ふむ……! このバターの乳脂肪分がサツマイモのデンプン質と結合することで、脳内のドーパミン分泌量が通常時の3倍以上に跳ね上がるというデータが今まさに私の脳裏で証明されたぞい!」
大賢者は完全に研究者の顔を忘れ、ただの食いしん坊の老人と化してイモをかき込んでいた。
その光景を眺めながら、レオンはほうじ茶をひとくち飲み、ふっと穏やかに笑った。
「まぁ、世界がどう転ぼうとも、美味しいものを食べて、お風呂に入って、のんびり寝られるなら、それが一番ってことさ」
「……もう、勝手にしなさいよ……」
マリアは最後の一口を名残惜しそうに飲み込み、口の端についたバターを指先で拭いながら、力なく、しかしどこかすっきりとした笑顔を浮かべた。
「……こんなところにいたら、私、本当にダメになっちゃう……。王都になんて、もう一生帰りたくなくなっちゃうじゃない……」
「おっ、いいじゃん。じゃあ君も、明日から『サウナハット管理助手』のアルバイトでも始めてみる? 給料は出ないけど、毎日この焼きイモと特性ドリンクが食べ放題だよ」
レオンの冗談めかした提案に、マリアは「うう……」と少しだけ悩んだような顔をした後、ポンと自分の頬を両手で軽く叩いた。
「……とりあえず、今日のところは、このバター焼きイモの美味しさに免じて、調査は『継続中』ってことにしといてあげるんだから……っ!」
こうして、世界を揺るがすはずだった元勇者パーティの聖女までもが、レオンの生み出した「こたつと極上のグルメ」の魔力の前に完全に陥落し、この平和なだらだらリゾート特区の新たな住人(候補)へと片足を突っ込んでしまうのだった。
外では薪割りの音がリズミカルに響き、縁側ではボードゲームの駒音がカチカチと鳴り響く。
世界の混乱をよそに、この名もなき廃村の時間は、どこまでもゆるやかに、そして最高に幸せな温もりに包まれて流れていくのであった。




