54 第11章:引きこもり大賢者と聖女の焦り
第11章 第4節
王国の中枢から単身、決死の覚悟を胸に北方へと旅立ち、ついにその「魔の廃村」へとたどり着いた元勇者パーティの聖女マリア。
彼女の脳内では、「悪の巣窟」「洗脳された大賢者」「精神汚染の禁呪を操る追放者レオン」というダークファンタジーの壮大な悲劇が繰り広げられていたはずだった。
しかし、目の前で展開されていたのは、満面の笑みで白樺の丸太をパーンと割りまくる元魔王軍最強の武闘派将軍ガロアの姿であり、さらに村の中心の古民家の縁側では、王国の最高知性である大賢者が、元魔王ルシアとキャッキャ言いながら自動麻雀卓風ボードゲームに興じ、おまけに特製のポテトチップスをボリボリと貪っているという、全宇宙の秩序とシリアスを木端微塵に粉砕する「究極のほのぼの地獄」であった。
「しょ、しょうぶ……じゃなくて、調査団の長が何を言っているんですか……! 暗殺者も、ガロア将軍も、あなたまで……どうしてこの村の人たちは、誰も彼もがそんなにのんびりして、敵意のかけらもないんですか……! ここは一体、どうなっているのよ……っ!」
マリアは半狂乱になりながら聖杖を突き出し、涙目でその場に立ち尽くしていた。
彼女のなかにあった「自分たちは正義であり、追放したレオンは邪悪な復讐者である」という揺るぎない世界観が、音を立てて崩れ去っていく。恐怖と混乱、そしてあまりのシュールさに、彼女の精神力はすでに限界値を超えようとしていた。
その混乱の極みにいるマリアに対し、こたつの特等席でどっかりと足を伸ばしていた元魔王ルシアは、面倒くさそうに片方の眉をひそめ、持っていた緑茶の湯呑みをコトッとサイドテーブルに置いた。
「いや、さっきから一人で大声出してうるさいんだけど。そんなにガタガタ震えて、寒いの? それとも頭の病気?」
「なっ……! だ、誰が頭の病気よ! 私を誰だと思っているの! 王国が誇る聖女マリアよ! あなたこそ、かつて世界を恐怖に陥れた魔王ルシア……! なぜそんなにのほほんと、人間の村でこたつに入っているのよ……っ!」
マリアが半ばヒステリックに叫ぶと、ルシアはやれやれといったふうに小さく息をつき、こたつの端に置いてあったアルミホイルに包まれた「何か」をトントンと指先で叩いた。
「はぁ……。まあそんなに怒らないの。眉間にそんなシワ寄せてると、すぐにお肌のシワが増えるわよ。とりあえず、そこに立ってても足が疲れるだけでしょ。まあ座れよ、この焼きイモ美味いよ」
ルシアが差し出したのは、レオンのパッシブスキル『最高環境創出』の恩恵をたっぷり受けた、村の神級畑で収穫された極上のサツマイモを、落ち葉の熾火でじっくりと時間をかけて焼き上げた「究極の特製焼きイモ」であった。
アルミホイルをめくった瞬間、黄金色に輝くトロトロの果肉から、蜜のように甘い香ばしい湯気がふわぁぁぁっと辺り一面に立ち上り、マリアの鼻腔を容赦なく直撃した。
「や、焼きイモ……? 私にそれを食わせようったって、そんな子供だましの餌食に……っ!」
キュルルルルルルル……ッ!!
マリアの腹の虫が、そのあまりにも暴力的なまでの甘い香りに反応し、静まり返った縁側に盛大に響き渡った。
「…………っ!!」
マリアの顔が、一瞬でトマトのように真っ赤に染め上がった。
彼女は早朝から休む間もなく馬車を飛ばし、恐怖と緊張のあまりろくに食事も口にしていなかったのである。その空っぽの胃袋に、神級焼きイモの圧倒的な糖分の香りが直撃した瞬間、人間の生理現象としての食欲は、どんなプライドや保身の理性的バリアよりも遥かに素早く、そして強力に彼女の脳を支配した。
「ほら、意地張らないの。ブラッドが朝から丹精込めて焼いたやつだからさ、マジで口の中でとろける美味さだよ」
レオンもこたつの中からひょいと顔を出し、お茶の入った湯呑みをもう一つマリアの方へとスライドさせた。
「うっ……! くそっ、こんな罠に……こんな甘い誘惑に、私が屈するわけには……!」
マリアはプルプルと全身を震わせながら、焼きイモから目をそらそうと必死に踏ん張った。しかし、その視線はすでに黄金色の果肉と、そこからトロリと垂れる黄金の蜜に釘付けになっていた。
「いいからいいから、そんな堅いこと言いなさんなって。ね、大賢者もそう思うでしょ?」
ルシアが隣にいる老人に同意を求めると、大賢者は麻雀の牌をいじる手を止め、フンと鼻を鳴らした。
「まったくじゃな。この小娘は緊張しすぎだ。いいか、聖女とやら、この村において『目の前にある美味いものを美味しくいただくこと』こそが最大の真理であり、最大の学術的検証なのだ。ほれ、余計な理屈は抜きにして、この焼きイモの糖度と水分量の黄金比を味わってみるがいい。私の研究成果の一つとして保証してやろう」
大賢者はそう言うと、自分用の焼きイモをフーフーと冷ましながら、豪快にかぶりつき、「んんーーーっ! 甘い! 蜜が! 蜜が舌の上で爆発するぞい!」と至福の表情を浮かべた。
「あぁ……もう、どうにでもなれ……っ!」
ついに、マリアのなかに残っていた理性の糸がプツリと音を立てて切れ落ちた。
彼女は聖杖をそのへんの地面にバサリと投げ捨ると、トボトボと敗者のような足取りでこたつの脇に歩み寄り、トスンと力なく腰を下ろした。
「い、いただきます……っ!」
マリアは震える手で、アルミホイルに包まれた焼きイモをそっと手に取り、恐る恐る一口分をちぎって口へと運んだ。
――ふわり……と、口いっぱいに広がる、かつて経験したことのない極上の甘みと、驚くほど滑らかでしっとりとした舌触り。
サツマイモ特有のパサパサ感は一切なく、まるで最高級のスイーツケーキを食べているかのような濃厚なコクと、じっくりと焼き上げられた香ばしい皮の風味が完璧に調和していた。
「んむっ……!? ……まっ……!?」
マリアの目が、カッと見開かれた。
「おいしい……! 何これ……! お芋なのに、まるで蜜をそのまま飲んでいるかのようにトロトロで、お口の中で優しくとろけていく……! あたたかくて、心の底からほっとする……!」
マリアはさっきまでの警戒心や恐怖心をどこかへ置き忘れ、夢中になって二口、三口と焼きイモを頬張り始めた。頬に小さなイモの欠片をつけながら無心で食べるその姿は、かつて王国の聖堂で気高く微笑んでいた聖女の面影など微塵もなく、ただの「美味しい食べ物に心を奪われた無垢な少女」そのものだった。
「だろ? うちの村の食材は、レオンのスキルのせいで大体何を作っても反則級に美味しくなっちゃうんだよね」
ルシアは得意げに鼻をならし、自分も二本目の焼きイモの皮を剥き始めた。
「ふう……美味しかった……」
マリアは最後の一口を名残惜しそうに飲み込み、手についた蜜をペロッと舐め取った。そして、自分がすっかりこの村のペースに巻き込まれ、敵のど真ん中で美味しく焼きイモを食べているという現実をようやく思い出し、ハッと顔を赤らめた。
「っ……! わたしは、こんなものを食べに来たんじゃないわよ! そもそも、あなたたちを説得しに来たのよ!」
「はいはい、説得ねえ」
レオンはほうじ茶をひとくち飲み、のんびりと尋ねた。
「で、俺たちを説得して、どうするつもりだったわけ? 王国に連れ戻す? それとも、また俺を追い出す?」
「それは……その……」
マリアは言葉に詰まった。
今さらレオンを王都に連れ戻したところで、彼がこの村で見せているような圧倒的な「だらだらリゾート空間」を再現できるわけでもなければ、自分たちが追放した不当な事実が明るみに出るだけだ。第一、ガロアや大賢者がすすんでこの村の住人になってしまっている現状で、自分一人に何ができるというのか。
マリアの瞳に、悔し涙の膜がうっすらと浮かんできた。
「だっておかしかったのよ……! あなたが追放されてから、世界のダンジョンはどんどん難しくなるし、私たちは毎日国民からのプレッシャーに怯えて、いつ落ちぶれるか分からない恐怖で精神的にボロボロだったのよ……! なのに、どうしてあなただけ、こんなところでこんなに気楽に、楽しそうに暮らしているのよ……!」
その叫びには、かつて勇者パーティの一員として華やかに生きていたはずの彼女が、世界のハードモード化と自らの実力不足によって追い詰められていた「本当の悲鳴」が隠されていていた。
レオンは、そんなマリアの震える姿をじっと見つめ、少しだけ困ったような、しかしどこか優しい笑みを浮かべた。
「別に、俺が世界を難しくしたわけじゃないんだけどさ」
レオンはこたつの上にポンと手を置き、マリアの目の前へと差し出した。
「ただ、無理して戦って、誰かを蹴落として、すり減っていく生き方しか知らないなら……たまにはこういうところで、サウナに入って、アイスでも舐めて、だらだらする生き方もあるってことさ。……まあ、お茶でも飲んで落ち着きなよ」
レオンのその穏やかな声を聞いた瞬間、マリアの中で張り詰めていたプライドの防壁が完全に崩壊した。
彼女は両手で顔を覆い、こたつの端で小さく肩を震わせながら、ポロポロと涙をこぼし始めたのだった。
最強の武闘派将軍が薪を割り、最高知性の大賢者が麻雀に興じ、そしてかつての敵である聖女までが焼きイモを食べて泣き出す――。
世界で最もシュールで、最も平和な「だらだら特区」の包容力は、ついに元勇者パーティの聖女の心をも完全に溶かしてしまうのだった。




