52 第11章:引きこもり大賢者と聖女の焦り
第11章 第2節
王国の中枢、白亜の城内にある聖堂の一室。
ステンドグラスから差し込む神聖な光が、静まり返った部屋を青や赤の美しいモザイク模様で染め上げていた。しかし、その厳かな雰囲気とは裏腹に、室内の空気は張り詰めた緊張感と冷や汗に満ちていた。
「そんな……嘘だと言ってよ……っ!」
聖女マリアは、届いたばかりの最新の密偵レポートを握りしめ、顔面を真っ青にしながらその場に崩れ落ちそうになっていた。
彼女の目の前には、かつてレオンをパーティから追放した張本人であり、現在は世界のハードモード化によってすっかり落ちぶれ、精神的に追い詰められている元勇者パーティの仲間たちが、不安げな表情で立ち尽くしていた。
レポートに記されていた内容は、マリアの正気を疑わせるほどに衝撃的だった。
――『王国より派遣された大賢者率いる精鋭魔導調査団、現地にて全滅(事実上の帰還拒否)。大賢者は村に到着するや否や敵の捕虜となり、現在は毎日こたつに入りながらボードゲームとサウナに明け暮れ、「ここに住んで研究を続ける」と宣言して王都への帰還を完全拒絶中。』
「大賢者様まで……! あの王国最高峰の知性を誇り、いかなる邪法や魔導的罠をも一網打尽にすると豪語していた大賢者様までが、あの村の得体の知れない魔の手にとらわれ、洗脳されてしまったというの……っ!?」
マリアは頭を抱え、震える声を絞り出した。
レオンを追放したあの忌々しい日以来、世界のダンジョンは突如として理不尽なまでのハードモード化を遂げ、かつては容易に攻略できたはずの迷宮で全滅する冒険者が続出していた。世間では「レオンを追い出した天罰だ」という陰口すら囁かれ始めており、聖女としての威信やパーティの誇りはすでにズタズタに引き裂かれていた。
そんな中での「大賢者の失踪および寝返り事件」は、マリアたちにとって致命的な一撃だった。
「どうするんだよ、マリア……!」
かつては誇り高き剣聖として名を馳せていたレイガーが、手にした聖剣の柄にすがりながら、血走った目で叫んだ。彼の顔には寝不足と焦燥の色が濃く滲み出ており、かつての輝きは見る影もない。
「暗殺者のブラッドが消え、魔王軍の最強将軍ガロアが消え、そして今度は王国の最高脳髄である大賢者までがあの村の虜になった……! あの村にいる『レオン』とかいう男は、一体どれほどの怪物なのだ……っ!?」
「レオンは……ただの落ちぶれた元前衛職よ……!」
マリアは恐怖で震える心を必死に抑え込みながら、甲高い声で否定した。
「特別な魔法の素養があるわけでも、かつてのパーティで目立った功績があったわけでもないわ! ただ、あの男は……私たちの知らない、何か卑劣で恐ろしい『精神汚染の禁呪』か、あるいは世界の理を歪めるような邪悪なチートの力を手に入れたに違いないのよ!」
(だからこそ……! あの男をこのまま野放しにしておけば、私たちの過去の追放劇の真相がすべて暴かれ、王国における私たちの立場は完全に失墜してしまう……!)
マリアの脳裏に浮かんでいたのは、純粋な世界の危機感や大賢者への心配などではない。
「自分たちのこれまでの栄光を守りたい」「レオンという存在に屈したという事実を認めたくない」「このままでは自分たちが世界から見放されてしまう」という、強烈な保身と自己愛に裏打ちされた焦燥感だった。
彼女はぐっと歯を食いしばり、震える足で立ち上がった。
「こうなったら……他の誰にも任せられないわ」
「え……?」レイガーが目を丸くする。
「マリア、まさか……」
「ええ、私が自らあの村へ赴くわ」
マリアは聖女としての白いローブの裾をきりりと翻し、決死の覚悟を宿した(ように見せかけた)目を向けた。
「大賢者様が洗脳され、理性を取り戻せなくなっているのなら、私に宿る神聖な浄化の奇跡の力でその邪法を打ち破り、大賢者様を正気に戻して連れ帰るのよ。それに……直接あのレオンとやらに直談判し、これ以上王国や魔王軍を混乱させるのをやめるよう、聖女の権威にかけて警告してやるわ!」
「しかしマリア、相手はあのガロアの軍勢すら一網打尽にした怪物だぞ! 一人で行くのは危険すぎるのでは……!」
「大丈夫よ。私には、女神より授かりし『聖なる結界魔法』があるわ。どんなに強力な精神誘導や邪法であっても、私の神聖力の前には無力化されるはずよ」
マリアはそう強がってみせたが、その実、内心では生きた心地がしなかった。
しかし、ここで何もしなければ、自分たちはじわじわと追い詰められ、世間の嘲笑の中で破滅を迎えるしかないという恐怖が、彼女の足を前へと強制的に突き動かしていた。
「レイガー、あなたたちはここで待っていて。私が必ず、大賢者様を連れ戻し、あの村の秘密を暴いてみせるから……!」
こうして、元勇者パーティの聖女マリアは、己の保身と歪んだプライドを胸に、一抹の恐怖を隠しながら、レオンたちの待つ「世界一平和なだらだら地獄(村)」へと単身、直談判に出発する決意を固めたのだった。
もちろん、彼女がこれから向かう先で待っているのが、恐ろしい邪法の罠ではなく、「こたつでみかんを食べながらボードゲームに興じる大賢者と、サウナ上がりにアイスを頬張る元魔王と元勇者」という、全宇宙で最も殺気のない平和な光景であることなど、マリアはこの時まだ知る由もなかったのである。




