39 第8章:ととのう魔族たち
第8章 第4節
インフィニティチェアのフラットな座面に体を預け、秋の心地よいそよ風を全身に浴びていた魔王軍一の武闘派将軍ガロア。
彼の脳内では今、人類の科学(およびレオンの不条理チートスキル)が到達した最高峰の物理的快楽――サウナと水風呂のコンボによって生み出された莫大な量の快楽物質が、ダムの決壊の如く一斉に分泌され、意識の海を黄金色の光で満たしていた。
「……と、ととのったぁぁぁーーーっ!?」
自らの咆哮の余韻が山々にこだます中、ガロアは半ば白目を剥きながら、虚空を見つめてプルプルと震えていた。
凄まじい。
あまりにも凄まじい快楽だった。
これまで彼が味わってきた「強敵を叩き伏せたときの征服感」や「過酷な戦場を生き残ったときの達成感」など、この外気浴がもたらす圧倒的なリラクゼーションの前には、ただの砂粒ほどのちっぽけな刺激にすぎなかった。
全身の細胞が「生きている……!」と歓喜の歌を歌い、血管の一本一本が温かな炭酸の泡に包まれているかのように軽やかで心地よい。
頭の中はどこまでもクリアで、悩みや迷い、怒りや憎しみといった負の感情のカスすら一粒たりとも残っていなかった。
「あぁ……我が人生のこれまでの数十年……いや、数百年の歳月は……すべてこの瞬間に至るための『前座』にすぎなかったのだ……」
ガロアはインフィニティチェアの肘掛けにガッチリと掴まっていた手をゆっくりと開き、仰向けになったまま天を仰いだ。その目には、うっすらと感動の涙が浮かんでいる。
「そうだ……。余はなぜ、あんなにも血眼になって前魔王ルシアの首を狙っていたのだろうか? クーデターの正当性? 新魔王軍の威信? 組織の秩序? ……そんなちっぽけな権力争いや殺し合いなど、このキンキンに冷えた水風呂の爽快感の前には、世界の歴史のゴミ屑ほどの価値もないではないか……!」
ガロアの中で、かつて絶対的だった「魔王軍将軍としての価値観」が、音を立てて完全に崩壊し、そしてより高次元の「サウナと水風呂を中心とした真理の哲学」へと綺麗に再構築されていた。
彼の脳内で、これまでの人生の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
荒れ狂う魔界の溶岩地帯での過酷な訓練。
血みどろの権力闘争。
仲間を疑い、背中を預け合いながら駆け抜けた修羅の道。
そのすべてが、今のガロアにとっては「遠い昔の、なんだかとても窮屈で、愚かだった日々」のように思えた。
「余の全人生は……この水風呂のためにあったのだ……ッ!」
ガロアは再びむくりと上半身を起こすと、ポンチョの裾を翻し、まるで神の啓示を受けた聖人のような神聖かつ厳かな眼差しで、その場に立ち尽くす親衛隊の100名の男たちを見回した。
部下たちもまた、全員がインフィニティチェアからズリズリと這い出し、同じように魂の抜けたような、しかしどこか悟りを開いたような清らかな顔をしてガロアを見つめ返していた。
「お前たち……感じるか?」
ガロアが低く、しかし底抜けに穏やかな声で呟いた。
「はっ……! 将軍……!」
副官がよろよろと立ち上がり、目頭を押さえながら頷いた。
「私、もう分かります……。私たちはこれまで、何のために戦っていたのでしょうか。剣を振るい、血を流し、誰かを打ち負かすことの何がそんなに楽しかったのか……。今ならハッキリと分かります。私たちが求めていたのは、領土でも栄誉でもない……この『水風呂の冷たさと、サウナの熱さのギャップが生み出す極上のトランス状態』だったのです……!」
「そうだ……その通りだ、副官よ!」
ガロアは感極まった様子で、副官の両手をガシッと力強く握り締めた。
二人の間に、かつての殺伐とした上下関係や軍人の威厳は微塵もない。そこにあるのは、同じ「ととのいの世界」に到達した者同士の、深い魂の共鳴と連帯感だけであった。
「もはや、前魔王ルシアの首などどうでもいい! むしろ、ルシア様がこの村に身を隠し、毎日このような素晴らしい極楽環境を教授してくださっているのだとすれば……我々はこれまで、何という大いなる勘違いと無礼を働いていたことか……!」
ガロアはバッと振り返り、少し離れた縁側で相変わらずこたつに入りながらミカンを剥いている元魔王ルシアの方へと視線を向けた。
ルシアはガロアたちの異様な熱気と神々しいまでの悟り顔に気づき、「え、なになに? なんかこっち見てるんだけど」と、ミカンを片手に少しだけ首を傾げた。
その瞬間――。
ガロアは、親衛隊の100名の部下たちを引き連れ、まるで畏れ多い神仏に参拝するかのような完璧な動作で、その場で一糸乱れぬ「土下座」の姿勢をとった。額を地面の土にピタリとこすりつけ、心からの敬意と忠誠を込めて叫んだのだ。
「前魔王ルシア様ぁぁぁーーーっ!!」
「うわっ、びっくりした! なに急に!?」
ルシアが肩をビクッと跳ね上げる。
「我ら新魔王軍重装甲親衛隊、および将軍ガロア! 貴女様の首を取るために進軍してまいりましたが、レオン殿が作り上げられたこの『本格薪サウナと神級水風呂』の圧倒的なまでの極楽浄土の前に、我が軍の殺意は100パーセント……いいや、120パーセント消失いたしましたぁぁぁーーーっ!!」
ガロアは涙を流しながら熱弁を振るう。
「つきましては! これより我らは、新魔王軍を正式に脱退し、この村の『サウナ・水風呂の専属管理人および薪割り部隊』として、一生涯を捧げる所存でありますっ!! 何卒、この愚かなる戦士どもを、水風呂の番人としてお傍に置くことをお許しくださーーーいっ!!」
「えっ……? えっ、ええーーーっ!?」
ルシアは目をパチクリさせ、隣に座っているレオンをバッと見上げた。
レオンはほうじ茶の湯呑みを傾けながら、「いやあ、サウナの効果ってすごいね。あんなにトゲトゲしかった軍団が、すっかりピカピカのツルツルになっちゃったよ」と、どこか他人事のようにのんびりと感想を漏らしていた。
こうして、新魔王軍最強の武闘派将軍とその親衛隊100名は、一滴の血も流すことなく、サウナと水風呂の快楽の暴力によって完全に屈服し、世界で最も平和な農村の「最強にして最良の温泉・サウナスタッフ」へと華麗なる転身を遂げることになったのである。




