30 第6章:だらだら村の平和な日常
第6章 第5節
世界は今、人知れず大きな混迷と衰退の渦に巻き込まれていた。
王都の誇る最高峰の戦力「元勇者パーティー」の剣聖レイガーと聖女マリアは、かつての栄光が嘘のように落ちぶれていた。
レオンという「世界環境補正(ベリーイージーモード発動チート装置)」を失った現実を受け入れられず、「自分たちはまだ本気を出していないだけ」「今回はたまたまコンディションが悪かっただけ」と自分に不都合な真実から目を背け、現実逃避を繰り返す日々。
しかし、現実はどこまでも冷酷だった。
ダンジョンに足を踏み入れるたびに、世界本来の容赦ない重力と劣悪な環境が二人の肉体を容赦なく打ちのめす。雑魚モンスターの一撃すら異様に重く、聖女の回復魔法は一回唱えるだけで魔力を全枯渇させる激重コストと化していた。かつては王都の民から惜しみない称賛を浴びていた二人だったが、今や小規模なダンジョンの入口で泥まみれになり、ボロボロになってほうほうの体で引き返してくる惨状であった。
「なぜだ……! なぜ世界はこんなにも冷たく、重いんだ……っ!?」
冷たい石畳の上で倒れ込み、涙と泥にまみれながら叫ぶレイガー。
「嫌……こんなの嫌よ……! 誰か助けて……誰か私を癒やして……っ!」
かつての高飛車な態度を失い、恐怖に震えながらうわ言を呟くマリア。
二人は自分たちが追放した「地味な男」が、どれほど世界そのものを優しく包み込んでいたのかを死ぬまで悟ることもできず、じわじわと破滅への坂道を転げ落ちていた。
一方、ルシアが去った後の「新魔王軍」もまた、崩壊の一途を辿っていた。
「威厳がない」「人間に優しすぎる」とルシアを追放し、力こそすべての過激派幹部たちが実権を握ったまでは良かったものの、彼らはルシアの真の恐ろしさを理解していなかったのだ。
ルシアが放っていた『全戦意蒸発』のオーラは、実は魔王軍内部の血生臭い内紛や暴走を無意識に鎮圧し、配下たちの精神状態を安定させる絶対的な「重石」として機能していたのである。
その重石が失われた新魔王軍の本拠地では、日夜幹部同士の醜い権力闘争と血で血を洗う内乱が勃発。さらに、レオン不在によって世界全体の物理法則が激変したことで、魔物たちの召喚コストや魔法の消費魔力が跳ね上がり、軍としての体をなさないほどに困窮していた。
「ルシア様がいらっしゃった頃は、なぜあんなにも平和で、食事が美味しく、兵の士気が安定していたのだ……!?」
「バカな……! あんなポンコツな魔王一人いなくなっただけで、なぜ我が軍は自滅に向かっているのだ……っ!?」
新魔王軍の幹部たちは、荒廃していく魔王城の玉座で髪をかきむしり、絶望の悲鳴を上げていた。
世界がハードモード化し、かつての権力者たちがじわじわと自爆して落ちぶれていく――そんな激動の裏側で。
王都から遠く離れた名もなき辺境の廃村は、世界のどの場所よりも温かく、どこまでも平和な「至高の極楽浄土」へと完全なる覚醒を遂げていた。
◇◆◇
秋が深まり、山々の木々が鮮やかな朱色と黄金色に染まる小春日和の午後。
かつて雑草が生い茂る廃村だったその場所には、農民たちの真心と、元暗殺者ブラッドの驚異的な匠の技、そしてレオンの『最高環境創出』の奇跡が合わさった、見事な木造の温泉施設が完成していた。
建物の入り口には、レオンの達筆(というか、寝転がりながら適当に書いた文字)をブラッドが忠実に彫り込んだ立派な木製看板が掲げられている。
『至高の癒やし処 温泉こたつ庵』
それは、過酷な世界から完全に隔離された、だらだらスローライフの最終完成形であった。
「はぁぁぁぁぁぁぁ……生き返るわぁぁぁぁ……」
脱衣所から繋がる広々とした露天風呂。
神級の名水が地中深くで程よく温められ、かすかに硫黄と柑橘の良い香りが漂う透明な湯の中で、元魔王ルシアが頭に小さな手ぬぐいをちょこんと乗せ、お湯にプカプカと浮いていた。
「ルシア、あんまり長く浸かってるとのぼせるぞー」
男湯と女湯を隔てる立派な竹垣の向こうから、ぬるま湯に肩まで浸かったレオンの呑気な声が響く。
「大丈夫よー。このお湯、いくら浸かってても全然疲れなくて、肌がツルツルになるんだから! ねぇブラッド、おかわりのお茶頂戴!」
「はいっ! ルシア様! ただいま露天風呂専用の浮き木桶にて、冷やしほうじ茶とおつまみをお届けいたしますぞ!」
露天風呂の脇にある専用の木道から、割烹着姿のブラッドが器用に木桶を浮かべて差し出してきた。木桶の上には、神級名水で冷やされた香ばしいお茶と、神級野菜で作った自家製の甘辛和菓子が美しく並べられている。
「わぁー! ブラッド最高ー! 本当気が利くんだから!」
ルシアはお湯からしなやかな腕を伸ばすと、浮き木桶からお茶を手に取り、ぐびぐびと喉を鳴らして飲み干した。
「ぷはぁっ! 温泉に入りながら冷たいお茶……! これ以上の幸せがこの世にあるかしら! いや、絶対にないわね!」
「だなー。俺も湯上がりに、あの特製うどん食べるのが楽しみだわ」
レオンもお風呂の縁に頭を預け、空に浮かぶ白い雲をぼんやりと見上げた。
レオンのパッシブスキル『最高環境創出』によって、この『温泉こたつ庵』のお湯は、入るだけであらゆる疲労やストレスが完全に吹き飛び、肌はスベスベになり、魔力と生命力が全回復するという「超高級エリクサー風呂」と化していた。
さらに、ルシアの『全戦意蒸発』が温泉全体に心地よい波動として充填されているため、敷地内に一歩入るだけで、どんなに心に悩みを抱えた者でも瞬時に角が取れ、仏のような穏やかな笑顔になってしまうのだ。
温泉から上がると、そこには広大な畳の広間が広がっていた。
広間の中央には、レオンたちのために特注で作られた巨大な「超大型特製こたつ」が鎮座している。
「ふあぁぁ……やっぱり最後はここね……」
濡れた髪をブラッドに優しく拭いてもらったルシアは、吸い寄せられるようにこたつへと潜り込み、ふかふかの掛け布団に全身を預けた。
レオンも同じように反対側からこたつへ潜り込み、二人は仲良く下半身を温めながら、トロトロの笑顔で顔を見合わせた。
広間の大きな窓からは、農民たちが作物を楽しそうに収穫している長閑な風景が見える。
彼らはもう飢えや恐怖に怯えることもなく、レオンへの深い感謝とともに、毎日笑顔で豊かな農作業に励んでいた。彼らが作った神級の米や野菜、自家製酒は、この『温泉こたつ庵』の最高級のメニューとして振る舞われている。
「レオン様、ルシア様。本日の夕食は、農民のトマスたちが献上してくれた神級米の炊き立てご飯と、神級野菜を極上出汁でじっくり煮込んだ『特製・極楽つくね鍋』でございます。お酒もお付けしますか?」
ブラッドが割烹着の裾を整え、恭しく二人に尋ねる。
「もちろん! お酒も鍋も全部持ってきて!」
「頼むよブラッド。お前の料理がないと、もう一日が締まらないからな」
「ハハッ! ありがたき幸せにございます! すぐに準備をしてまいりますぞ!」
誇らしげに胸を張り、ウキウキとした足取りで厨房へと向かっていくブラッド。
かつて闇の世界で恐れられた最強の暗殺者は、今やこの村で最も生き生きと、そして幸せそうに包丁を握っていた。
「ねえ、レオン」
こたつの上でミカンを転がしながら、ルシアが優しく微笑んだ。
「ん?」
「私、勇者パーティーに追放されたあんたと出会えて、本当に良かったわ」
「急にどうしたんだよ、恥ずかしいな」
レオンが照れくさそうに苦笑いする。
「だって本当だもん。世界を滅ぼすとか、人間と戦うとか、そんなくだらないことに縛られてた頃より、あんたとこうやってこたつに入って、美味しいもの食べて笑ってる今が……私にとって、一番の宝物だもの」
ルシアはそう言うと、こたつの中でレオンの手に自分の手をそっと重ねた。その手は、驚くほど温かかった。
レオンもまた、ルシアの手を優しく握り返し、茜色に染まり始めた窓の外の空を見つめた。
「俺もだよ、ルシア。勇者なんて大層な看板を下ろして、お前やブラッドと一緒にここで暮らせて、本当に良かったと思ってる」
派手な魔法も、英雄としての名声も、彼には必要なかった。
ただ、目の前にいる大切な仲間たちが笑顔でいてくれて、美味しいご飯を食べて、温かい温泉とこたつで一緒にだらだらできること。それこそが、元勇者レオンが得た「最強で最高の報酬」だったのだ。
「さあ、お待たせいたしました! 特製・極楽つくね鍋と、冷やし生原酒でございます!」
タイミングよく、ブラッドが湯気と芳醇な香りを漂わせた大鍋と、冷えた酒瓶を運んできた。
「わーい! 鍋だ鍋だー!」
「よし、それじゃあ今夜も……乾杯!」
「乾杯ですぞ!」
カチン、と三つの杯が触れ合い、温かな笑い声が部屋いっぱいに広がる。
外の世界がどれほど混乱し、追放した者たちがどれほど自滅していこうとも、この場所だけは永遠に変わらない。
神級の名水があり、極上の温泉があり、至高の出汁とうどんがあり、温かなこたつがあり、そして何よりも愛おしい仲間たちがいる。
世界で一番平和で、世界で一番贅沢な、だらだらスローライフ。
元勇者と元魔王、そして元暗殺者の、最高に自堕落で幸せな物語は――この温かな『温泉こたつ庵』から、これからも永遠に続いていくのだった。
(第1巻 完)




