25 第5章:隠密ブラッドの「沼」体験レポート
第5章 第5節
秋の陽光が穏やかに傾き始める、夕刻のひととき。
王都を包む陰謀や、世界各地で巻き起こる魔物たちの脅威、そして前線ダンジョンで繰り広げられている勇者パーティーの壮絶な大苦戦――そんな人間界の喧騒や苛烈な運命から完全に隔絶されたその小さな廃村に、今日という一日の終わりを告げる静かな黄金色の光が降り注いでいた。
古民家の広い木製の縁側。
磨き上げられた古い木肌の上には、三個の座布団が仲良く並べられていた。
真ん中に座っているのは、ラフな部屋着を着崩し、両手を後ろについてぼんやりと空を眺めている元勇者レオン。
その右隣には、すっかり温泉とこたつとブラッドの甘やかしによって骨抜きにされ、丸っこいクッションを抱きかかえて膝を抱えている元魔王ルシア。
そして左隣には、頭の手ぬぐいを外し、小綺麗なあたたかい羽織を羽織り、恭しくもどこかリラックスした面持ちで腰かけている元・裏社会最強の暗殺者ブラッド。
三人の前には、小さな木製のローテーブルが置かれている。
そこには、ブラッドが井戸の神級名水で淹れたばかりの香ばしいほうじ茶が湯気を立てる三つの湯呑みと、レオンの『最高環境創出』によって神級食材へと進化した甘いサツマイモを使ってブラッドが焼き上げた「ほくほくの焼き芋」が、一口サイズにカットされて重箱に盛られていた。
「ふあぁぁぁ……」
ルシアが小さなあくびを漏らし、クッションにぐにゅうと顔を埋めた。
かつて魔界の玉座で全魔族を統率し、冷酷な眼差しで人間界を見下ろしていた魔王の面影は、いまやどこを探しても見当たらない。いまや彼女のトレードマークとなった、ピンク色の柔らかい髪が夕日に照らされて綺麗に輝いている。
「ねえ、レオン、ブラッド……」
ルシアが小さな声で呼びかけた。
「ん? なんだよ」
「なんですかな、ルシア様?」
レオンとブラッドが同時に顔を向けると、ルシアは焼き芋を一口つまみ、ほくほくと口を動かしながら、目の前に広がる景色を愛おしそうに見つめた。
縁側の向こうに広がるのは、かつて荒れ果てていたはずの小さな庭。
今やレオンのだらだらパワーとブラッドの手入れによって、瑞々しい神級野菜たちが実る豊穣の畑となり、その先には湯気がぽかぽかと温かく立ち上る天然露天風呂がある。さらに視線を上げれば、赤や黄色に美しく染まった秋の山々が、燃えるような茜色の夕焼け空に包み込まれていた。
風が渡るたびに、庭の木々がシャラシャラと心地よい音を立て、遠くの森から帰巣する鳥たちの穏やかな鳴き声が届く。
どこを見渡しても、脅威も、緊張も、殺気も存在しない。
ただ圧倒的な「安らぎ」と「自由」だけが、この空間を優しく支配していた。
「私ね、魔王城にいた頃……夕暮れって大嫌いだったのよ」
ルシアがぽつりと呟いた。
「え、そうなの? なんで?」
レオンが不思議そうに首を傾げる。
「だって、魔王城の夕暮れってね、これから夜の進軍が始まる合図だったり、刺客が忍び込んでくる警戒の時間だったり、幹部たちが『次はどの人間国家を攻めましょうか』って物騒な会議を始める時間だったのよ。空が赤く染まるのを見るたびに、人間の血の色みたいで嫌だなぁって思ってたの」
ルシアはほうじ茶の湯呑みを両手で包み込み、ふーっと息を吹きかけて一口啜った。温かなお茶が喉を通ると、彼女の顔がふにゃりとほころぶ。
「でもね……ここで見る夕焼けは、びっくりするくらい綺麗で、あったかくて……見てるだけでお腹が空いて、眠くなってくるの。不思議ね」
その言葉を聞いて、左隣のブラッドが深く頷いた。
かつて漆黒の闇に身を隠し、血と刃の匂いの中で生きてきた最強の暗殺者もまた、その感慨を誰よりも理解できる一人だった。
「お気持ち、よく分かりますぞ、ルシア様」
ブラッドは遠い目をして、茜色の空を見上げた。
「私もまた、闇の世界におりました頃は、夕暮れとは『狩りの時間』の始まりに過ぎませんでした。太陽が沈むにつれ、暗殺者たちの殺気が蠢き、いつ誰に背後から刺されるか分からぬ恐怖と緊張で、胃を痛める日々……。食事の味など感じたこともなく、ただ生き延びるためだけに生肉や乾パンを噛み砕いていたものでございます」
ブラッドは自分の両手を見つめた。
かつては毒薬と短剣を握り締め、人の命を奪うためだけに振るわれていたその手は、今や美味しい出汁を引き、モチモチのうどんを打ち、二人をもてなすための「温かな職人の手」へと変わっていた。
「ですが……今、こうしてお二人と共に縁側に並び、夕日を眺めながら温かなお茶と焼き芋を味わっている……。これほどの幸福が、この世に存在していたとは。かつての私が知ったら、きっと腰を抜かして驚くでしょうな」
ブラッドの目元が、夕日の光を受けてうっすらと潤んだ。
しかし、それは寂しさや悔恨の涙ではない。自分の居場所を見つけ、心から満たされている者だけが見せる、至福の涙だった。
「……そっか」
レオンは二人の話静かに耳を傾けた後、後ろについていた手を放し、深く息を吐き出した。
「二人とも、大変な苦労をしてきたんだな。俺なんてさ、勇者パーティーにいた頃は、毎日毎日レイガーたちの派手な技の後始末をさせられて、ダンジョンの荷物持ちさせられて、おまけに『お前は派手な技が使えないから役立たずだ』って追い出されて……。あの頃は、自分が何のために戦ってるのかさえ分からなくなってたよ」
レオンは腕を組み、のんびりと笑った。
「でもさ、追放されてこの村に辿り着いて、ルシアと出会って、ブラッドが来てくれて……。毎日なんにもしないで、こたつに入って、美味いうどん食べて、温泉に入ってさ。俺、今が人生で一番幸せだわ」
「レオン……」
「レオン様……」
ルシアとブラッドが、温かな眼差しでレオンを見つめる。
レオンの持つ無自覚のチート能力――『最高環境創出』。
それは本来なら、世界を一人でひっくり返すほどの規格外な英雄の力だったのかもしれない。しかし、彼が望んだのは世界の覇権でも、溢れんばかりの財宝でも、無駄な名声でもなかった。
ただ、「大好きな仲間たちと、何も考えずにだらだらと平和に暮らすこと」。
その純粋で強烈な「だらだらへの情熱」こそが、かつて居場所を失い、傷ついていた元魔王と元暗殺者を救い、この世界で最も温かな「極楽の沼」を作り上げたのだ。
空の色は、鮮やかな茜色から、しっとりとした紫色のグラデーションへと移り変わっていく。
一番星が、東の空にポツンと控えめに輝き始めた。
秋の爽やかな風が吹き抜け、三人の頬を優しく撫でていく。
どこからか、七輪でブラッドが仕込んでいる夜の鍋料理の、出汁の芳醇な良い香りが漂ってきた。
「ねえ、レオン」
ルシアがクッションに顎を乗せたまま、ほのぼのとした笑顔で呟いた。
「ん?」
「平和って……最高ね」
その言葉に、レオンは柔らかく目を細め、深く深く頷いた。
「……だなー」
「はい。本当に……最高にございますね」
ブラッドもまた、二人に合わせて静かに微笑んだ。
誰一人として、立ち上がろうとはしない。
誰一人として、明日への焦りや不安を口にしない。
ただ、落ちていく夕日を眺め、温かなお茶を啜り、互いの存在を感じ合いながら、どこまでも穏やかな時間を分かち合っている。
王都の勇者パーティーがどんなに苦難の泥沼に喘いでいようと、裏社会の暗殺ギルドがどんなに大騒ぎしていようと、そんなことはこの三人にとってどうでもいいことだった。
ここには、最高の名水がある。
最高の温泉がある。
最高の出汁とうどんがある。
そして、何よりも大切な「だらだらできる仲間」がいる。
「さて……そろそろ寒くなってきたし、こたつに入って夜のご飯にしようか」
レオンがよっこいしょ、と重い腰を上げた。
「あ、私またブラッドにミカン剥いてもらおーっと!」
「お任せくださいルシア様! 今夜はさらに進化した『無重力ミカン剥き』をお見せいたしますぞ!」
「おいおい、ルシア、少しは自分で剥けよー」
「えー、だってブラッドが剥いてくれた方が美味いんだもん!」
他愛もない軽口を叩き合いながら、三人は仲良く立ち上がり、温かなあかりの灯る居間へと戻っていく。
縁側に残された二つの足跡と、三つの空になった湯呑み。
山あいの静寂に包まれた小さな廃村に、今日も世界で一番平和で、最高に幸福な夜が、静かに訪れようとしていた。




