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24 第5章:隠密ブラッドの「沼」体験レポート

第5章 第4節


レオンのパッシブスキル『最高環境創出』がもたらす神級名水と極上温泉、そして採れたての神級食材。そこにルシアの『全戦意蒸発』が織りなす平和な空気と、元暗殺者ブラッドが振るう至高のうどん&料理。


このあまりにも完璧すぎる「だらだら環境」の相乗効果は、村の住人たちの自堕落さを留まること知らず加速させていた。


その最大の被害者――いや、最大の受恵者こそが、かつて魔界の頂点に君臨し、全魔族から恐れられていた元魔王ルシアであった。


◇◆◇


ある日の風もない、うららかな午後のこと。


古民家の居間では、ぽかぽかと温かな熱を放つ特製こたつの中に、ルシアとレオンがすっぽりと下半身を沈めていた。


縁側から差し込む温かな日差し、温泉から漂うほのかな湯気の気配、そしてお腹を満たしているブラッド特製の「神級野菜と出汁の力うどん」の幸福感。すべての条件が重なり合い、部屋の中には脳みそがトロトロに溶けてしまいそうなほどの、圧倒的な怠惰のオーラが充満している。


「あー……ぽかぽかするぅ……」


ルシアはこたつの上に顎をちょこんと乗せ、完全になめくじのようにへにゃへにゃになっていた。

かつて漆黒のドレスを身に纏い、冷酷な瞳で人間どもを威圧していた威厳など、ミクロの塵ほど残っていない。今の彼女は、ただの「こたつから出たら死んでしまうポンコツ妖精」であった。


こたつの上には、ブラッドが綺麗に洗って山盛りにセットしておいた、神級の甘さを誇る極上ミカンがカゴに入って置かれている。


ルシアは、トロンとした半開きの目でそのミカンの山をじーっと見つめていた。


「……ねえ、レオン」

「んー……なに……?」

隣で同じように顎をテーブルに乗せてまどろんでいたレオンが、めんどくさそうに片目だけを開けた。


「私……ミカンが食べたいの……」

「そう。そこにあるじゃん。食べなよ」

「ううん……違うの……」


ルシアはふにゃふにゃとした声で、力なく首を左右に振った。


「ミカンはそこにあるんだけどね……『手を伸ばしてミカンを取る』っていう動作と……『爪を立てて皮を剥く』っていうプロセスが……あまりにも遠い未来の出来事に見えて……手が動かないの……」


「……ルシア、それ重症だぞ」

レオンは呆れたように言ったが、自分自身もミカンを取るために腕を数センチ動かすことすら億劫だったため、人のことは全く言えなかった。


「だってぇ……皮を剥くと指先が黄色くなるしぃ……皮を引っ張るのに指の筋力を使うじゃない……? 今の私、指一本動かすだけで全魔力の半分を消費する勢いなの……」


「どんな燃費の悪さだよ」


ルシアのポンコツ化は、日に日に深刻化していた。

村に来た当初は、まだ自分の手でミカンの皮を剥き、レオンとどちらが長く皮を途切れさせずに剥けるかなどと競い合う「元気」があった。しかし、ブラッドが加わり、衣食住のすべてが完璧に世話されるようになった結果、彼女の「何もしない能力」は神の領域へと足を踏み入れてしまったのだ。


「あーあ……誰か親切な人が……私の代わりにミカンの皮を綺麗に剥いて……一房ずつにして……私の口の中にそっと放り込んでくれないかしら……」


ルシアが天を仰ぎながら、都合の良すぎる妄想を呟いていた、その時である。


パタパタパタ……。


居間の敷居を跨いで、頭に白い手ぬぐいを巻いたブラッドが、お茶の入った急須を持って爽やかに入ってきた。


「レオン様、ルシア様! おやつの時間に合わせて、井戸の名水で淹れた一番茶をお持ちいたしましたぞ! ミカンと一緒に召し上がると、お口の中が実にさっぱりとして――」


「ブラッドーーーっ!!」


ルシアの目が、奇跡的にカッと見開かれた。

彼女はこたつから上半身だけをズリズリと這い出させると、救世主を見るような眼差しでブラッドを見上げた。


「お聞きしなさいブラッド! 非常事態よ! 緊急事態発生よ!」


「なっ……!? な、なんですとルシア様! 刺客ですか!? 王都の追っ手ですか!?」

ブラッドは一瞬で表情を鋭くし、腰の包丁(うどん用)に手をかけそうになった。


「違うわ! 私の『ミカンを食べたいけれど皮を剥くのが面倒くさいゲージ』が限界値を突破したのよ!」


「…………は?」

ブラッドの動きがピタリと止まった。


ルシアは至極真面目な顔で、ブラッドに向かって指をさした。


「もう私、自分でミカン剥くの面倒くさい! ブラッド、私の代わりにミカン剥いて! 剥いて一房ずつ口に入れて!」


完全なるポンコツ化の宣言であった。


元魔王が、元暗殺者に対して放った指示が「ミカンの皮を剥いて口に入れろ」である。普通の暗殺者なら「舐めるな!」と激怒して刀を抜くところだろう。


しかし、今のブラッドは違った。

彼は「承認欲求が満たされ、二人のお世話をすることが生きがいとなった至高の従者」なのである。


ブラッドは一瞬、呆気に取られたように目を丸くしたが、次の瞬間にはその顔に「職人としての魂」と「歓喜の笑み」が爆発していた。


「な……なるほど……! 確かに、お手を汚させ、指先に無駄な負荷をかけさせるなど、お世話係としての私の配慮が足りておりませんでした……! ルシア様、大変申し訳ございません!」


「えっ、あ、うん。謝られるとちょっと罪悪感があるんだけど……」

あまりの神対応に、ルシアの方が少し引いた。


「お任せください! 暗殺者時代、私はターゲットの皮膚を削ぎ落とさずに衣服だけを切り裂く『微細刃術』を修得しております! ミカンの皮剥きなど、我が神業の前には児戯に等しい!」


ブラッドはカゴからミカンを素早く一つ手に取ると、サッと懐から取り出した極小の小刀をシャキーンと滑らせた。


目にも留まらぬ速さで、銀色の軌跡がミカンの周囲を舞う。


シュシュシュシュシュッ……!


「……完成です」


ブラッドが手を止めると、ミカンの橙色の皮が、まるで一枚の花びらのように美しく綺麗に四方に開いた。中の果肉には傷一つついておらず、白い筋(アルベド)は一筋残らず完璧に除去されている。さらに、一房一房が一口サイズに美しくセパレートされていた。


芸術的なまでの「プロのミカン剥き」であった。


「わ、すごーい……ッ! 一瞬で皮が剥けて、白い筋も全部なくなってる……!」

ルシアの目が輝いた。


「さあ、ルシア様! お口をお開けください!」

ブラッドは箸を使い、極上のミカンを一房静かに持ち上げると、ルシアの口元へと運んだ。


ルシアは「あーん」と口を開け、パクッとそれを含んだ。


ジュワッ……!


「んんんんんん~~~っっ!! 美味しいぃぃぃ……! 自分の手を使わずに食べるミカン、美味さ百倍なんだけどぉぉぉ……!!」


ルシアは幸せのあまり、こたつの上でゴロゴロと芋虫のように転がり回った。


「ふははは! お気に召していただけて光栄にございます! さあ、レオン様もいかがですか!」

「あ、じゃあ俺もお願いしようかな……あーん」


レオンまで便乗して口を開け、ブラッドから手際よく剥かれたミカンを口に運んでもらった。


「お、うまっ。ブラッド、お前ミカン剥くのも天才だな」

「お褒めのお言葉、恐悦至極にございますレオン様!!」


絶賛されたブラッドは、ますますテンションを上げ、両手に小刀とミカンを持ちながら「シュシュシュッ!」と目にも留まらぬ速さでミカンを剥き続けていく。居間には、まるで最高級料亭のパフォーマンスのごとく、次々と美しく剥かれたミカンの山が築かれていった。


「あーん……もぐもぐ……あーん……もぐもぐ……」


こたつから一歩も出ず、指一つ動かさずに、元暗殺者にミカンを口に運ばせ続ける元魔王。

そして、それを当然のように受け入れ、一緒に「あーん」している元勇者。


「ねえレオン……私ね、分かったの」

ミカンを味わいながら、ルシアが満足気な顔で呟いた。


「何がだよ」


「人間も魔族もね、本当の幸せっていうのは……『自分の手を一切動かさずに、美味しいものを食べてゴロゴロすること』なのよ。私、もう二度と魔王に戻りたくないわ……」


「最初から戻る気なかっただろ」

レオンが呆れ顔で突っ込むが、自分も完全にブラッドの至れり尽くせりサービスに屈していた。


かくして、ルシアのポンコツ化は「完全体」へと進化を遂げ、村の日常はますます「戻れない極楽の沼」へと深く沈み込んでいくのだった。


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