↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
22/87

22 第5章:隠密ブラッドの「沼」体験レポート

第5章 第2節


暗殺ギルドへ一方的な「退職届」を速達で叩きつけてから数日。元・裏社会最強の暗殺者ブラッドは、今や完全に「極楽村専属うどん料理長代行」としての日常に没頭していた。


彼の一日は早い。

毎朝、太陽が東の山並みから顔を覗かせる前に起き出し、レオンが掘り当てた神級の井戸水で顔を洗う。そして、村の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら、台所へと向かうのだ。


かつて暗殺者だった頃のブラッドは、ターゲットの毒殺のために薬草や鉱物の成分を0.1ミリグラム単位で精密に調合し、人間の急所や呼吸の乱れをコンマ数秒単位で見極める超人的な集中力を持っていた。

しかし今、その恐るべき集中力と職人技のすべては、ただ一つの目的――「最高のうどん出汁を引くこと」だけに注がれていた。


「……ふむ。本日の井戸水は、昨夜の雨の影響でほんのわずかに鉱物分が多めか。ならば、昆布を浸す時間を普段より三分長くし、火入れの温度を二度下げて旨味をじっくりと抽出せねばならん……!」


台所に立つブラッドの眼光は真剣そのものだった。

大鍋からは、フツフツと心地よい音とともに、黄金色に輝く液体が湯気を立ち上らせている。厳選された昆布と枯れ節、そして隠し味として微量に調合された山菜の干物。それらがレオンの『最高環境創出』のパッシブスキルが宿る名水と出会ったことで、化学反応を超えた「奇跡の芳香」を生み出していた。


「よし……! 本日の『至高の出汁』、完成だ……ッ!」


ブラッドが手ぬぐいで額の汗を拭うと同時に、居間の方からノソノソと二つの影がやってきた。


「ふあぁぁぁ……なんかめちゃくちゃ良い匂いがして目が覚めたんだけど……」

「ん……おはようブラッド。今日も朝からなんか凄いの作ってるね……」


こたつから抜け出し、髪をボサボサにしたままやってきたのは、元魔王ルシアと元勇者レオンだった。二人とも完全に「だらだらモード」であり、起きて開口一番に食べる気満々である。


「おはようございます、レオン様、ルシア様! 本日の朝食は、調整を重ねた渾身の一杯――『特製・極旨黄金出汁かけうどん』でございます! さあ、冷めないうちにお召し上がりください!」


ブラッドは恭しく二人の前に、湯気立ち込める大きな丼を一つずつ並べた。


透き通った黄金色のつゆの中で、ツヤツヤと輝くモチモチの打ち立て麺。その上には、綺麗に刻まれた青ネギと、薄く揚がったお揚げがちょこんと乗っている。シンプルだからこそ、誤魔化しが一切効かない真勝負のうどんだった。


「わぁ……綺麗……! つゆが宝石みたいに透き通ってる!」

ルシアは目を輝かせると、待ちきれない様子でレンゲを手に取り、まずはつゆをひとくち啜った。


「んむ……っ!?」


瞬間、ルシアの動きが完全に止まった。

瞳が大きく見開かれ、身体がビクッと跳ね上がる。


「ルシア? どうしたんだよ急に……」

レオンも不思議そうに箸を伸ばし、うどんをズズッと口に含んだ。


――静寂。


台所に、数秒間の静寂が訪れた。

ブラッドは息を飲み、緊張の面持ちで二人の反応を待つ。いくら自信作とはいえ、相手は元勇者と元魔王だ。味覚の肥えた二人がどう評価するか、心臓が口から飛び出そうなほどの緊張感だった。


そして次の瞬間――。


「「うんっっっまーーーーーーいッッッ!!!???」」


二人の絶叫が、古民家の天井を突き破らんばかりに響き渡った。


「な、なになになにこれぇぇぇ!? 出汁の旨味が脳みそにダイレクトに染み渡ってくるんだけど!? お腹の中に落ちた瞬間に、全身の疲れがファァァって消えていく感覚がする……!!」

ルシアは両手で自分の頬を抑えながら、タコのようにクネクネと体を悶えさせた。


「おいおいおい……マジかよこれ……! 前に俺が適当に作ったやつより、何倍も出汁の深みが違うぞ……! 麺のコシも完璧だし、喉越しが良すぎて噛む前に飲み込んじゃうレベルだ……!」

レオンも猛烈な勢いで箸を動かし、ズズズッ! ズズズズッ! と豪快にうどんを啜り上げていく。


二人はもう言葉を交わす暇すら惜しいとばかりに、一心不乱にうどんを貪り、あっという間に丼の底が見えるまでつゆを飲み干してしまった。


「はぁぁぁぁぁ……完食……! 最高……神の食べ物だわこれ……」

「ぷはぁっ! ごちそうさま! いやー、美味かった……!」


空になった丼をどんっと置いた二人は、同時にブラッドの方へ顔を向けた。

ルシアが心からの感動を込めた瞳で、ブラッドを見つめて叫ぶ。


「ブラッド、あんた……天才か!? 天才なの!? こんなに美味いうどん、魔界の歴史を千年間調べても存在しないわよ!!」


レオンも深く頷き、力強くブラッドの肩を叩いた。

「ほんとだよ! ブラッド、お前うどん作りの天才だよ! 暗殺者なんて物騒な仕事やってる場合じゃなかったな! 俺たち、お前がうちに来てくれて本当によかったよ!」


――天才。

――お前が来てくれて本当によかった。


その言葉が、ブラッドの胸の真ん中にずどんと突き刺さった。


(あ……あぁ…………)


ブラッドの身体が、微かに震え始めた。


思い返せば、彼のこれまでの人生は「闇」そのものだった。

幼少期から暗殺ギルドで仕込まれ、失敗すれば酷使され、成功しても「殺して当然」「完璧で当たり前」と処理される毎日。首領や幹部から掛けられる言葉といえば、「次の標的は誰だ」「しくじるな」「痕跡を残すな」といった、冷酷な命令と脅迫だけだった。


誰も、ブラッドという人間そのものを見てはくれなかった。

彼がどれほど苦血の鍛錬を重ねようが、どれほど完璧に仕事をこなそうが、誰一人として「ありがとう」とも「お前が来てくれてよかった」とも言ってはくれなかったのだ。


そんな彼が、生まれて初めて。

自分の作った料理で、他人から心からの絶賛を受け、その存在を100%全肯定された瞬間だった。


ブラッドの瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。


「う……うぁぁぁぁぁっ……!!」


「えっ!? ブラッド!? なんで泣いてるの!?」

ルシアが慌てて立ち上がる。


「い、嫌だったか……? 『天才』とか言ってプレッシャーになっちゃった……?」

レオンも心配そうに顔を覗き込んだ。


ブラッドは首を大きく横に振った。溢れ出る涙を粗末な前掛けの袖で何度も拭いながら、しゃくりあげる声で叫んだ。


「い、いえ……! 違います……! 違いまふ……ッ! 嬉し……嬉しいのです……! 私は……私は生きている中で……こんなにも温かい言葉を掛けられたことが……一度も無かったのです……っ!」


ブラッドは、その場に手をついて深々と頭を下げた。


「レオン様……ルシア様……! ありがとうございます……! 私の作った料理を、そんなにも美味しそうに食べてくださって……! 私の存在を認めてくださって……っ! 私、ブラッド……一生この村で、お二人のためにうどんを打ち続けます……!!」


胸の奥底に長年溜まっていた冷たい孤独と承認欲求が、二人の言葉と温かな出汁によって、完全に満たされていくのをブラッドは感じていた。


「なんだ、そういうことか! びっくりさせんなよー」

レオンはホッとしたように笑うと、ブラッドの背中をバシバシと優しく叩いた。


「もうっ、脅かさないでよ! でも本当に美味しいんだから自信持ちなさいよ! ほら、感動してる暇があったら、おかわりちょうだい! まだまだ食べられるわよ!」

ルシアが空の丼を差し出してニッコリと笑う。


「はいっ……! ただいま、至高のおかわりをお持ちいたしますっ……!!」


涙を拭ったブラッドの顔には、かつて闇の世界で恐れられた暗殺者の影など、微塵も残っていなかった。

そこにあったのは、愛する「家族」に美味しい料理を食べてもらえることに、心からの喜びと誇りを感じている、一人の誇り高き料理人の爽やかな笑顔だった。


こうして、元勇者と元魔王、そして元暗殺者の三人は、湯気立ち込める居間で笑い合いながら、さらなる極楽のスローライフへと足を踏み入れていくのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。