21 第5章:隠密ブラッドの「沼」体験レポート
第5章 第1節
朝露が廃村の緑を優しく濡らす清々しい早朝。
鳥たちの爽やかなさえずりが響き渡る中、かつて裏社会を震撼させた伝説の暗殺者――ブラッドの朝は、実に規則正しく、そして清々しい手際から始まっていた。
頭には清潔な白い手ぬぐいをきりりと巻き、紺色の前掛けを腰に結んだブラッドは、真剣そのものの目つきで大きな木桶に向かい合っていた。
その木桶の中にあるのは、レオンが掘り当てた神級の湧き水と、厳選された小麦粉を混ぜ合わせて丹念にこね上げられた、うどんの生地である。
「ふっ……はっ……! 捏ねが足りぬと、あの喉越しの滑らかさが失われる……! 熟成時間も、井戸の冷気を利用して完璧にコントロールせねばならん……!」
力強く、かつ繊細な指先で生地を揉み込むその姿は、かつて数多の要人の命を闇から闇へと葬り去ってきた影の殺人鬼のそれではない。完全に「匠の域」に足を踏み入れつつある、生粋の職人の佇まいそのものであった。
「ブラッドー、おはよー。今日の朝ご飯、うどんなのー?」
居間の障子がガラリと開き、まだ眠気眼の元魔王ルシアが、特製こたつから這い出しながらあくびを噛み殺してやってきた。着古したダボダボの服を纏い、髪の毛をぽやぽやとハネさせた姿は、かつて魔界を統べた絶対的な威圧感など見る影もない。
「おはようございます、ルシア様! ええ、本日の朝食は、井戸の極上名水と昆布出汁を極限まで引き立てた『朝摘み山菜の冷やしかけうどん』にございます! レオン様が昨日寝転がりながら指指した裏山で採れた山菜の天ぷらも添えておりますぞ!」
「わーい! ブラッド、相変わらず優秀すぎ! 私、もうブラッドの揚げた天ぷらと出汁うどんがないと生きていけない体にされちゃったわ!」
「ハハハ! 最高の褒め言葉にございます、ルシア様! さあ、レオン様をお起こしして、すぐにお召し上がりいただけるよう準備を整えますね!」
ブラッドは眩しいほどの笑顔で胸を張った。
彼の心には、かつて闇の世界で生きていた頃の陰鬱な暗雲など、欠片も残っていなかった。
刺客としてこの村に潜入し、レオンを暗殺しようとした夜。
レオンの無意識のパッシブスキル『最高環境創出』がもたらす極上の夜食おにぎりの美味さに号泣し、温泉の温もりに骨抜きにされ、そのまま「動いたら負け」という平和の沼にどっぷりと浸かってから数週間。
ブラッドはこの村で、人生で初めての「人間らしい幸福」と「働く喜び」を噛み締めていたのだった。
「……さて」
レオンとルシアが朝食のうどんを「うまいうまい」と夢中で啜り、再びこたつの中に吸い込まれて二度寝を始めたのを見届けた後。
ブラッドは居間の隅にある小さな文机に向かい、一枚の上質な紙と羽ペンを取り出した。
「そろそろ、過去の清算をしておかねばならんな」
ブラッドの表情が、ほんの一瞬だけ職人から「元・裏社会の重鎮」のそれに戻る。
彼が所属していたのは、王国全土の闇仕事を裏で牛耳る、最大の暗殺ギルド『黒い影の爪』であった。王族や貴族、はては勇者パーティーからの極秘依頼まで請け負うその組織は、脱走や裏切りに対して「死」以外の選択肢を絶対に許さない、冷酷無比な掟で知られている。
組織の幹部たち、そして首領は今頃、ブラッドからの音沙汰が途絶えたことで、さぞかし首をかしげていることだろう。
「ふむ……無用な追っ手が押し寄せてきては、レオン様とルシア様の穏やかな『だらだらスローライフ』の邪魔になってしまう。ここできっぱりと、自分の意思を伝えておくのが筋というものだな」
ブラッドは迷いのない手つきで羽ペンを滑らせ始めた。
紙の一番上には、大きな文字でこう記された。
『退 職 届』
暗殺ギルドの数千年の歴史において、このような書類が提出された例は、当然ながら過去に一度たりとも存在しない。
ブラッドはサラサラと滑らかな筆致で、退職理由と今後の抱負を丁寧に綴っていった。
『ギルド首領殿、ならびに幹部の皆様へ。
拝啓
秋冷の候、皆様におかれましては益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
私、第一暗殺部隊長ブラッドは、このたび一身上の都合――具体的には「当村における至高の出汁とうどんの魅力、ならびに極上温泉の効能に魂が完落ちしたこと」により、本日をもちまして貴組織を退職させていただきます。
長年にわたり、殺伐とした闇の仕事と暗殺技術の向上に携わらせていただきましたこと、深く感謝申し上げます。しかしながら、命を奪う殺伐とした日々よりも、毎朝丁寧に打ったうどんを人々に提供し「美味い」と喜んでもらう日々の方が、私の人生において圧倒的に価値があるという結論に至りました。
つきましては、引き継ぎ等は一切行いません。私の私物やアトリエに残された暗殺道具、毒薬の類はすべて破棄していただいて構いません。
なお、今後の連絡先についてですが、当方は現在「絶対不働の生活」を営む尊い方々のお世話に専念しておりますため、いかなる暗殺依頼、または説得・連れ戻しの刺客等の派遣もお断りさせていただきます。
万が一、私を連れ戻すために刺客を差し向けられた場合、その者が当村の極楽温泉とレオン特製うどんの毒牙にかかり、即座に暗殺者を廃業して当店の「うどん仕込み第二助手」として採用される可能性が極めて高いことを、あらかじめ警告しておきます。
末筆ではございますが、貴組織の益々のご発展(ならびに、皆様が一日も早くまともな職業に転職されること)を心よりお祈り申し上げます。
敬具
元・第一暗殺部隊長
現・極楽村専属うどん料理長代行
ブラッド』
書き終えたブラッドは、フッと満足げに息を吹きかけてインクを乾かした。
その顔には、長年彼を縛り付けていた呪縛から完全に解き放たれた、晴れやかな笑みが浮かんでいた。
「よし、完璧だな。丁寧かつ論理的、そして感謝の意も込めた完璧なビジネス文書だ」
ブラッドは手紙を丁寧に三つ折りにすると、羊皮紙の封筒に入れ、しっかりとのり付けをした。表書きには、王国裏社会の誰もが恐れおののく暗殺ギルドの本部住所を、美しい達筆で記入する。
「さて、これを王都行きの定期郵便の伝書鳩に持たせるとしよう」
ブラッドは文机を立ち上がり、庭へと出た。
庭では、レオンが掘り当てた温泉の湯気がぽかぽかと立ち上り、ルシアの放つ『全戦意蒸発』のオーラによって、近くの木々には小鳥たちが警戒心ゼロで羽を休めている。
ブラッドは指笛をピッと鳴らした。
すると、村の近くを偶然飛んでいた伝書鳩が、ルシアの戦意蒸発パワーと村全体の心地よさに吸い寄せられるように、トコトコと空から降りてきてブラッドの手にちょこんと止まった。
「頼んだぞ。王都の『黒い影の爪』本部へ、配達だ」
ブラッドが手紙を結びつけた鳩の頭を優しく撫でてやると、鳩は「ポッポー」と気持よさそうに鳴き、大空へと羽ばたいていった。
手紙を載せた伝書鳩が秋の青空へ消えていくのを、ブラッドは見送った。
「……これで良し。さーて、昼の仕込みに取り掛かるとするか! 今日の昼は、レオン様のご要望にお応えして『餅入り力うどん』にしよう!」
過去の暗殺者としての地位も、恐れられた名声も、組織からの追っ手というリスクも、今のブラッドにとっては「美味しい出汁を引くこと」に比べれば取るに足らない小事であった。
腕まくりをした元最強の暗殺者は、鼻歌を交じえながら、どこまでも平和な我が家――レオンの屋敷の台所へと、ウキウキとした足取りで戻っていくのだった。




