15 第3章:最初の刺客、極悪暗殺者ブラッド
第3章 第5節
翌日の朝。
朝日が昇り、荒れ果てたはずの農村は、どこまでも穏やかな光に包まれていた。鳥たちがのんびりとさえずり、風は優しく木々の葉を揺らしている。
古民家の縁側では、元勇者レオンと元魔王ルシアが、早くも特製のこたつに下半身を突っ込みながら、まったりと朝の時間を過ごしていた。ルシアは相変わらずミカンを剥きながら「あー、今日の空気も最高にだらだらできるわね」とご機嫌な笑みを浮かべている。
そこに、裏庭の方から、パタパタと軽やかな足音が聞こえてきた。
「……おや、起きてきたか」
レオンが視線を向けると、そこに立っていたのは、昨夜まで王国裏社会を震え上がらせるはずだった伝説の暗殺者、ブラッドだった。
ただし、彼の装いは昨夜の不気味な黒ずずくめの忍装束ではなかった。レオンがどこからか調達してきた小綺麗な麻のシャツとズボンを着こみ、頭には手ぬぐいをキュッと巻き、なぜか手には大きな木製の泡立て器を持っていた。
ブラッドの顔つきは、昨夜の冷酷な殺人鬼の面影は微塵もなく、どこか悟りを開いた僧侶のように清々しく、そして満ち足りていた。
彼はレオンたちの前まで歩いてくると、カクッとうやうやしく見事な直角のお辞儀をした。
「おはようございます、レオン様、ルシア様!」
そのあまりにも爽やかすぎる挨拶に、ルシアは食べていたミカンを思わず落としそうになった。
「えっ……? えっ? なにこの人、昨日まで殺気満々でレオンを暗殺しに来た変質者……じゃなくて刺客よね? なんかすっごく生まれ変わってない?」
ルシアが戸惑いながら聞くと、ブラッドはきっぱりとした口調で胸を張った。
「ルシア様、昨夜までの私は死にました。暗殺者ブラッドとしての人生は、あの極上の露天温泉に浸かった瞬間に綺麗さっぱりと完結したのです!」
「完結って……自分で言っちゃったよこの人」
レオンは呆れ半分、苦笑い半分でポリポリと頭をかいた。
ブラッドは熱っぽく語り始めた。
「聞いてください、レオン様。あの温泉の温かさは、私の凍りついた冷酷な殺意を根底から溶かしてくださいました。そして、何よりあの夜食にいただいた『特製夜食おにぎり』の美味さ……。あんなに魂が震えるほどの感動を覚えたのは、私の暗殺人生三十年の中で一度たりともありませんでした!」
ブラッドは両手を強く握り締め、感極まったように瞳を潤わせた。
「私は悟ったのです。人を殺め、暗い闇の中を生きる人生など、もうおしまいだ。これからの余生は、すべての人類……いや、すべての生きとし生けるものに『至高の美味さ』と『究極の癒やし』を提供するために捧げようと!」
「……はあ、なるほど。つまり、もう人を襲うのはやめるってことね?」
レオンが納得したように頷く。
「はい! ですから、私に新しい仕事を与えてください!」
ブラッドはそう言うと、持っていた木製の泡立て器を掲げ、決意に満ちた目でレオンを見据えた。
「私をこの村の住民として雇ってください! 暗殺者は今日で完全に辞めます! その代わり……! どうか私に、毎日の『うどんの仕込み』と『出汁の黄金比率の管理』、そして『庭の薪割り』をやらせてください!!」
まさかの「暗殺者からうどん職人への華麗なる転身宣言」だった。
レオンは少し面食らったが、すぐに「まあ、いっか」と肩をすくめた。
「うどんの仕込みかぁ。毎日自分で麺を打つのも、実はちょっとめんどくさいなーって思ってたところなんだよね。ブラッドがやってくれるなら、めちゃくちゃ助かるけどさ」
「本当ですか……っ!? ありがとうございます、レオン様!」
ブラッドは感涙にむせびながら、その場で再び深々と頭を下げた。
「やったじゃんレオン! これで朝からうどんが自動で食べられるパラダイスが確定したわね!」
ルシアも手を叩いて大喜びした。元魔王の元へ暗殺しにきたはずの刺客が、いつの間にか自分たちの下僕……じゃなくて優秀な料理担当助手として完全に取り込まれてしまった瞬間だった。
「よし、それじゃあ早速、今日の朝うどんの仕込みに取り掛かります! 昨日の出汁よりも、さらに深いコクを引き出すために、井戸の名水をベースにした新しい配合を試すのです……っ!」
ブラッドは職人の顔つき(謎のガチ勢)に変貌すると、気合十分の足取りで台所へと駆け込んでいった。
縁側には再び、穏やかな風と、温かなこたつのぬくもりが戻ってきた。
「……なんかさ、どんどん仲間が増えていくね、この村」
レオンが遠い目をして呟くと、ルシアはこたつの中で足をパタパタさせながらニヤリと笑った。
「いい傾向じゃない! 労働は他人に任せて、私たちは一生こたつでミカンを食べていればいいんだから!」
「だな」
レオンは深く頷き、再びこたつの温かさに身を委ねた。
剣聖や聖女たちが送り込んだ最強の刺客ですら、この村の「極楽温泉とポカポカこたつ、そして極上の出汁」の魔力の前には一瞬で屈し、だらだらスローライフの信者へと変貌してしまう。
世界がどれほど慌ただしく回っていようとも、この小さな農村だけは、世界で最も平和で、最も抗えない「極楽の沼」として、静かに、そして確実に拡大していくのだった。




