14 第3章:最初の刺客、極悪暗殺者ブラッド
第3章 第4節
王国裏社会の伝説にして、影の殺人鬼と恐れられる最強の暗殺者ブラッドは、今、人生最大の混乱のなかにいた。
暗殺のターゲットである元勇者レオンの寝込みを襲うはずが、彼の家から漂う極上の出汁の香りに耐えかねて「特製夜食おにぎり」を盗み食いし、そのあまりの美味しさに人生で初めて大号泣するという失態を犯してしまったのだ。
(私は一体、何をやってるんだ……!? 暗殺者としての誇りはどこへ行った……! ターゲットを前にして、勝手に夜食を食って泣いている刺客なんて、歴史上どこにもいないぞ……っ!)
ブラッドは心の中で自分の頭を何度も掻きむしった。
目の前には、こたつから上半身を出し、寝ぼけ眼でこちらを見つめているレオンがいる。服装はラフな部屋着、手には何も武器を持っていない。完全無防備。暗殺者としてこれ以上ない絶好のチャンスである。
しかし、ブラッドの体はピクリとも動かなかった。先ほど食べたおにぎりの幸福感が全身の筋肉を弛緩させ、レオンの周りに漂う『最高環境創出』の圧倒的な怠惰オーラが、彼の殺気をきれいさっぱり洗い流していたからだ。
「……あれ? 君、もしかして夜勤の人?」
レオンはボリボリと頭を掻きながら、目の前に立つ真っ黒な忍装束の男――ブラッドをじっと見つめた。
「……は?」
ブラッドは思わず間抜けな声を漏らした。
「いやさ、こんな真夜中にこんな格好でウロウロしてさ。しかも、俺がこっそり隠しておいた……いや、置いておいた夜食のおにぎりを綺麗に食べてくれただろ? めちゃくちゃお腹空いてたんだな。夜勤の巡回ご苦労様だよ」
(や、夜勤の巡回……!? 私を誰だと思っているんだ! 王国裏社会を震え上がらせる影の殺人鬼だぞ!)
ブラッドは怒りと戸惑いでツッコミを入れたかったが、なぜか声が出なかった。
レオンはそんなブラッドの内心など露知らず、のそりとこたつから這い出してきた。そして、ブラッドの目の前まで来ると、彼の武装した黒ずずくめの肩を、まるで長年の知人のようにポンポンと軽く叩いた。
「それにしても、外は冷えたろ? そんな真っ黒で薄そうな格好してさ、絶対体が芯まで冷え切ってるだろ。顔色も青いし、さっきまで泣いてたみたいだし」
「っ……!」
図星を突かれ、ブラッドはビクリと肩を揺らした。
「ちょうどいいや。うちの裏にさ、最近勝手に湧き出た最高の天然温泉があるんだよ。お湯がトロトロで、どんなに凝った体も一瞬でフニャフニャになる代物でさ。よかったら、入って温まっていきなよ」
「は……? お、温泉……?」
ブラッドの脳内が完全にバグを起こした。
標的の男が、暗殺しにやってきた刺客に対して「夜勤お疲れ、お風呂に入っていけ」と勧めてくる。こんなシチュエーションは、暗殺者の教本にも、裏社会の裏マニュアルにも一切載っていない。
「そう、温泉。いや、ほんといい湯なんだこれが。夜遅くまでお仕事ご苦労様ってことで、俺からのサービスってことでさ。どう? ひと風呂浴びてく?」
レオンの瞳には、疑うことのない純粋な優しさと、ただ「相手を温めてあげたい」という天然の気遣いしか宿っていなかった。そこに微塵の計算も、罠の意図もない。
(この男……! 私が殺意を抱いてやってきたというのに、なぜここまで無警戒に……! いや、違う、この圧倒的なまでの自然体……! 私の殺気など、この男の前では最初から存在しなかったかのように無意味化されている……ッ!)
ブラッドは打ち震えた。
剣聖レイガーから命じられた暗殺任務。レオンを消し去り、その存在を闇に葬るはずだった。しかし、目の前の男のあまりの器のデカさ(あるいは、ただの無気力なマイペースさ)の前に、ブラッドのなかにあった冷酷な殺意は、完全にガス抜きされたように消え失せていた。
「……わ、私も……お風呂、入っていいのか……?」
ブラッドは震える声で、絞り出すように尋ねた。
「おっ、入る? よしよし、案内するよ。こっちだ、足元暗いから気をつけてな」
レオンはすっかり「夜勤の真面目な職員(だと勘違いしている)」に優しく接するおじさんのようなノリで、ブラッドの背中を誘導し始めた。
裏庭へと続く戸を開けると、そこにはもうもうと湯気を立ち上げる天然露天風呂が広がっていた。ひんやりとした夜気に包まれた庭に、温泉の心地よい硫黄の香りと、極上の温もりがふんわりと漂っている。
「ほら、ここ。お湯加減はバッチリだからさ。ゆっくり浸かって、一日の仕事の疲れを癒やしてきなよ」
レオンはそう言い残すと、「じゃ、俺はまたこたつに戻るから」と、マイペースに居間へと戻ってい換気していった。
一人、露天風呂の縁に取り残されたブラッド。
目の前には、月明かりに照らされた極上の温泉が、ゆらゆらと湯気を揺らしている。
ブラッドはしばらく立ち尽くしていたが、やがて、その冷え切った体に染み入るような温かさに誘われるように、ゆっくりと自身の忍装束の留め金を外し始めた。
「……任務? ……そんなもの、知るか……」
漆黒の暗殺用マスクと衣服を脱ぎ捨て、ブラッドは恐る恐るそのトロトロの温泉へと足を滑り込ませた。
全身を包み込む極上の温かさに、彼の口から思わず魂の抜けたような溜息が漏れる。
「あぁ……っ……極楽だ……私は今まで、一体何のために暗殺者なんて物騒な仕事を……」
頭まですっぽりと湯に浸かり、ブラッドの意識は完全にトロンと溶けていく。
王国裏社会最強の暗殺者は、こうして元勇者の天然の優しさと温泉の魔力によって、一瞬にしてその牙を完全に抜かれてしまうのだった。




