13 第3章:最初の刺客、極悪暗殺者ブラッド
第3章 第3節
王国裏社会の伝説にして、影の殺人鬼と恐れられる最強の暗殺者ブラッド。
彼は今、かつてないほどの深刻なジレンマに直面していた。任務である元勇者レオンの暗殺を果たすため、静かに居間に潜入したものの、そこで待ち受けていたのは想像を絶する「飯テロ」の空間だった。
ぽかぽかと温かな特製こたつのなかで、無防備に眠りこけるレオンと元魔王ルシア。そしてその傍らには、七輪の上で湯気を上げる黄金色の土鍋と、ふっくらと握られた「特製夜食おにぎり」がぽつんと置かれていた。
(ふ、ふざけるな……私は暗殺者だぞ……! ターゲットを闇に葬るためにこの家へ忍び込んだというのに、なぜ私は今、目の前にある米の塊を前にしてこんなにも動揺しているんだ……っ!)
ブラッドは心の中で激しく自分を叱責した。長年の暗殺者としてのキャリアにおいて、数々の修羅場をくぐり抜けてきた彼である。毒殺、奇襲、あらゆる手段で標的を仕留めてきた。目の前の男は無防備であり、今すぐ短剣の切先を喉元に突き立てれば、任務は一瞬で完了するはずだった。
しかし、ブラッドの肉体、とりわけ胃袋は、彼の冷酷な理性とは裏腹にとっくに限界を迎えていた。
王都からこの辺境の村まで、休む間もなく影のように駆け抜けてきたのだ。栄養補給といえば、道中でかじった乾パンと水だけ。そんな極限状態の男の前に、最高級の出汁の匂いを纏った、炊き立ての米で作られたおにぎりが転がっている。それはもはや、精神攻撃に等しい拷問だった。
(……一口だけだ。一口だけ、あの皿の端から米粒を失敬して、空腹の胃袋を落ち着かせたらすぐに任務に戻る……! これほどの匂いを放つ料理だ、一口くらい食べたところで私の暗殺技術が鈍るわけがない……!)
ブラッドは自らにそう言い訳を作ると、音もなく忍び足で皿へと近づいた。
周囲には、レオンの持つ『最高環境創出』のパッシブスキルによって、まるで人をリラックスさせるための特殊な波動が満ち満ちており、ブラッドの殺気はいつの間にかすっかり削ぎ落とされてしまっていた。
彼は息を殺し、震える手で皿の上の「特製夜食おにぎり」をそっと持ち上げた。
ふっくらと握られたそれは、絶妙な塩加減と、先ほどの出汁の炊き込みご飯がベースになっているのか、手に持つだけで香ばしい旨味が鼻腔を直撃する。海苔のパリッとした質感と、ほんのり温かい米の感触が、ブラッドの冷え切った指先に優しく伝わってきた。
「……失礼する」
ブラッドは誰にともなく呟くと、意を決してそのおにぎりを一口、ガブリと大きくかじりついた。
瞬間――。
ブラッドの全神経が、激しい衝撃に打ち震えた。
「なっ……!? こ、これは……っ!!」
口に入れた瞬間、まず米の一粒一粒から弾けるような芳醇な甘みが広がり、続いて絶妙な塩加減と、奥深くからじわりと染み出す特製の出汁の旨味が、舌の上で爆発した。ただの塩むすびではない。米の銘柄、炊き加減、塩のミネラル、そして隠し味として練りこまれたであろう未知の旨味成分が、完璧なまでの黄金比率で調和していた。
長年の暗殺生活で、常に死と隣り合わせに生き、緊張の連続だったブラッドの心と体。そのすべての細胞が、この温かく優しい味わいに包み込まれ、次々と癒やされていく。
「う……うそだろ……? たかがおにぎりごとに、私は何を……っ!」
涙腺が、音を立てて決壊した。
ブラッドの目から、大粒の涙がポロポロと畳の上へとこぼれ落ちた。暗殺者として生きて以来、恐怖で泣いたことも、悲しみで泣いたこともない。それなのに、彼は今、見知らぬ男が作った夜食のおにぎりが「あまりにも美味すぎる」という理由だけで、子供のように号泣していたのだ。
「うまい……美味すぎる……! なんだこれ……こんな美味いものが、この世に存在していいのか……っ!」
ブラッドは夢中になり、残りの部分を次々と口にかきこんだ。
あっという間に一網打尽にされたおにぎりは胃袋へと消え去り、彼の口の中には至福の余韻だけが残された。
「ふう……っ!」
ブラッドは満足感と、言い知れない感動のあまり、その場で両手をついて荒い息を吐いた。
その時だった。
「……んあ? 誰だ……?」
足元から聞こえた低い声に、ブラッドはハッと背筋を凍らせた。
見ると、いつの間にか目を覚ました元勇者レオンが、こたつの隙間からぼんやりとした目でこちらを見上げていた。
「って……夜食のおにぎり、誰かさんが全部食って空っぽになってるじゃん……。あれ、俺の幻覚だったのかな……それとも、夜食泥棒?」
レオンは寝ぼけ眼で頭をポリポリと掻きながら、目の前に立っている真っ黒な忍装束に身を包み、涙を流している不審者――ブラッドの姿をじっと見つめた。
絶体絶命のピンチ。
暗殺者としてのプライドが、ここで武器を抜けと叫んでいる。しかし、ブラッドの心と体は、先ほど食べたおにぎりの衝撃と、レオンの家から漂う圧倒的な居心地の良さに完全に支配されていた。
最強の暗殺者と元勇者、運命の出会いは、あまりにもシュールで、あまりにも平和な「おにぎりの完食」をきっかけにして、予想外の方向へと転がり始めるのだった。




