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12 第3章:最初の刺客、極悪暗殺者ブラッド

第3章 第2節


漆黒の闇夜が、世界を深く静まり返らせていた。

星明かりすらない夜の帳の中、音もなく影のように移動する人影があった。王国裏社会の伝説にして、影の殺人鬼と恐れられる最強の暗殺者――ブラッドである。


彼は剣聖レイガーからの極秘依頼を受け、元勇者レオンの居場所を突き止め、人里離れた荒れ果てた農村へと単身潜入していた。


(ふん、噂通りの寂れた田舎だな……。こんな場所で、元勇者が怯えて震えているとはな)


ブラッドは足音を一切立てず、地面の枯れ葉すら踏まないほどの神業的な隠密歩行で、村の奥深くへと進んでいった。手には、夜闇に紛れる特製の暗殺用短剣が冷たく光っている。ターゲットであるレオンがどの家屋にいるのか、彼の優れた索敵スキルですぐに特定された。村の中心にぽつんと建つ、ひときわ大きく、かつては立派だった古民家。そこから、かすかに生活の気配が漏れ聞こえていた。


「見つけたぞ、レオン……。お前の命運もここまでだ」


ブラッドは呼吸を整え、殺気を完全に消し去った。

暗殺者としての彼は、これまで数々の猛者や貴人たちを、音もなく、気づかれることなく葬ってきた実績を持つ。標的がどれほど警戒していようとも、彼の奇襲を防ぐことは不可能だった。


ブラッドは警戒しながらも、静かに古民家の縁側の窓際へと忍び寄った。

障子の隙間から中を覗き、一気に踏み込んで致命の一撃を叩き込む――その計算通り、彼は音もなく窓枠に手をかけ、そっと隙間を作った。


その瞬間だった。


「…………んっ?」


ブラッドの鼻腔を、強烈な感覚が襲った。

それは、殺気でも、警戒すべき魔力の気配でもない。もっとこう、人間の生存本能の根幹を直撃するような、あまりにも芳醇で、あまりにも暴力的なまでの「良い匂い」だった。


「なっ……なんだ、この匂いは……?」


ブラッドは思わず動きを止めた。

それは、厳選された昆布と枯れ節をじっくりと煮込んだときにだけ立ち上る、極上の「出汁(だし)」の香りだった。ほんのりと醤油の香ばしさと、微かに甘みを感じさせる、深く、優しく、そして圧倒的に食欲をそそる芳香が、夜の冷たい空気を完全に支配していた。


(くっ……! これは一体……!? 暗殺の現場に、なぜこんな飯テロのような美味そうな匂いが漂っているのだ……!? トラップか? 敵の新しい心理誘導の魔法か……っ!)


ブラッドは冷や汗をかきながら、警戒レベルを最大に引き上げた。

しかし、彼の胃袋は、その香りを嗅いだ瞬間から盛大に「グゥゥゥ……」と情けない音を鳴らして反逆を始めた。


考えてみれば、ブラッドは王都からこの遠く離れた農村まで、数日間にわたって不眠不休で強行軍を続けていたのだ。任務の達成に集中するあまり、ろくな食事も摂っていなかった。その極限の空腹状態の身体にとって、この目の前で漂う極上の出汁の香りは、毒薬以上の劇薬だった。


ブラッドは障子の隙間から、恐る恐る室内の様子を覗き見た。


そこにあったのは、暗殺者の潜入先として想像していた「緊迫した戦場」ではなかった。

薄暗い居間の真ん中には、ポカポカと温かな熱を放つ、見慣れない木製の家具――特製の「こたつ」が置かれていた。そして、そのこたつに下半身をすっぽりと預け、すっかり骨抜きになった状態でぐっすりと眠りこけている、元勇者レオンと元魔王ルシアの姿があった。


さらに、そのこたつの脇に置かれた小さな七輪の上では、土鍋からふつふつと黄金色のスープが湧き上がり、先ほどの極上の匂いを周囲へとまき散らしている。土鍋の横には、作り置きされたばかりなのだろう、ツヤツヤと輝く塩むすびが綺麗に並べられていた。


「…………」


ブラッドは混乱した。

目の前で無防備に寝ている男が、王国が警戒する元勇者レオンで間違いない。しかし、殺気もなければ、戦闘態勢すらない。ただただ、あまりにも平和で、あまりにも美味しそうな空間が広がっているだけなのだ。


(ふざけるな……! 私は暗殺者だぞ! 王国裏社会の影の英雄だぞ! なぜ私は今、ターゲットの家を覗き見しながら、その晩御飯の匂いに気を取られているんだ……っ!)


ブラッドは自分の頬を心の中で叩き、意識を任務へと引き戻そうとした。

そうだ、目的はレオンの暗殺だ。今なら、寝込みを襲えば一撃で終わる。こんな美味そうな匂いに惑わされてはならない。


ブラッドは静かに短剣を構え直すと、音もなく障子を開け、畳の上へと足を踏み入れた。

「これまでだ、レオン……!」


心の中で叫び、一気に間合いを詰めようとしたその時――。


「ん……? なんか、いい匂いがする……」


寝ているはずのレオンが、ふと寝言を呟きながらモゾモゾと動いた。

ブラッドは反射的に息を止め、身構えた。


しかし、レオンは起きてこなかった。彼はただ寝ぼけた様子で手を伸ばし、こたつの脇に置いてあった皿の上にふと目を向けた。そこには、先ほどルシアが夜食にとこしらえて(レオンが作ったのだが)残しておいた、ふっくらとした「特製夜食おにぎり」が一個、ぽつんと転がっていた。


レオンは目を閉じたまま、むにゃむにゃと呟いた。

「……夜食の……おにぎり……食べるか……」


だが、レオンはこたつの魔力(最高環境創出&絶対暖かパワー)に完全に全身を絡め取られており、おにぎりを取りに行くための数センチの移動かすら「めんどくさい」と判断したのか、再びスヤスヤと寝息を立て始めてしまった。


残されたのは、おにぎり。そして、部屋の隅に潜んでいる最強の暗殺者ブラッド。


静まり返った居間。

ブラッドは短剣を握りしめたまま、そのおにぎりと、目の前で無防備に眠るレオンを交互に見つめ、激しい葛藤の渦に飲み込まれていくのだった。


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