#20 使い損なった静けさ
二日目の朝、椀の棚に、伏せたままの椀が四つ増えていた。
三日目には、九つ。
四日目、俺は数えるのをやめた。数えなくても分かるようになったからだ。泉の窪地に、人がいなかった。
巡礼は、驚くほど速く引いた。速さの理由は、考えれば当たり前だった。この村へ来るには、荷馬車の通れない段々道を三刻登らなければならない。三刻登る理由が消えれば、人は登らない。柳の皮なら、麓の町でも手に入る。
六日目、土産物の台が二つに減った。
八日目、宿の一軒が、看板を下ろした。
*
ドレクが死んだのは、五日目の夜だった。
俺がそれを知ったのは、翌朝だ。村の男が二人、板を担いで坂を下りていくのを見て、シエラが宿の女将に聞いた。
女将は、俺のほうを見なかった。それが答えだった。
俺は、その家へ行った。行くべきだったのかは、いまでも分からない。行かないほうが、たぶん、あの家のためだった。
土間に、菰が敷いてあった。近所の女が二人、手を動かしていた。ドレクの妻は、竈の前に座って、火を見ていた。何も煮ていない火だった。
娘が、外の井戸端にいた。
九つの、あの子だった。
俺は、声をかけた。かけてしまった。
「……お父さんのことは」
「あの薬」と娘は言った。
俺の言葉を待たずに、そう言った。用意していた言葉だったのだと思う。何日も、口の中で転がしていた言葉の出方だった。
「あの薬、あたしが煮たの。ちゃんと、教わったとおりに。三日、飲んでた」
「ああ」
「四日目から、飲まなくなった」
俺は、黙っていた。
「お父ちゃん、朝、あたしが泉から帰ってくるの、待ってたの。毎朝。あたしが戸を開けると、目を開けて、待ってた」娘は、井戸の縁の石を、指で撫でていた。「薬は、裏で煮るから。待つ時間がないの」
「……」
「だから、あたし、あの晩、聞こうと思ったの。おじさんに」
俺は、あの夜のことを思い出した。焚き火の前で、この子が俺の前に立ち止まって、口を開いて、閉じて、また開いて、何も言わずに行ったこと。
「あたし、明日から何を運べばいいの、って」
娘は、泣かなかった。泣くところは、もう済んでいたのだろう。
「でも、おじさん、すごく嬉しそうだったから」
俺は、そこで、この子に何か言うべきだった。
言葉は、いくらでも浮かんだ。父上の病は、もともと重かった。柳は本当に効いていた。君の煎じ方は正しかった。君のせいではない。全部、事実だ。事実は一つも、この子の役に立たなかった。
俺は、囁きより少し大きいだけの声で、こう言った。
「すまなかった」
娘は、うなずかなかった。うなずかずに、家へ入っていった。
それでよかったのだと思う。この子が俺を許す理由は、何一つなかった。
*
医者に聞けば、こう言うだろう。もともと保たなかった、と。
それは正しい。腹の中の病は、柳の皮では治らない。夏を越せるかどうか、という話だった。俺が来なくても、彼は秋に死んだ。
だが、五日ではなかった。
彼は、朝、戸が開くのを待っていた。待つものがある人間の呼吸と、待つものがない人間の呼吸は、違う。俺は、それを知っていたはずだった。俺の商売は、待たせることだった。三十年、人を待たせて、待たせた分だけ深く息を吸わせて、そこへ幕を開けることで飯を食ってきた。
俺は、この村から、朝を一つ取り上げた。
*
坂の途中で、長老に会った。
彼は、柳の三本のうち、真ん中の一本の根元に、石を積んでいた。水が根に当たりすぎないように、流れを少し逸らしている。
「枯らすと、困るからな」と彼は言った。
俺のほうを見ずに、そう言った。
「効くのは、本当だった」と彼は続けた。「あんたの言ったことは、全部、本当だ。誰も、あんたが嘘をついたとは思っとらん」
「……はい」
「みんな、あんたに礼を言うべきだと言っとる。だから誰も、あんたに何も言わん」
石を、もう一つ積んだ。
「わしはな、あの晩、あんたを止めようとしたんじゃない」
俺は、顔を上げた。
「わしが聞いたのは、返したあと、ここにいてくれるのか、ということだ」と長老は言った。「あんたは答えんかった。だからわしは、答えられん人だと分かった。分かった上で、止めんかった」
「なぜ」
「三十戸の村に、宿が二軒あった」
長老は、そこで初めて俺を見た。
「二軒目が建ったのは、四年前だ。あれは、いずれ落ちる。落ちるのは、あんたが来たからじゃない。ああいうものは、必ず落ちる。落ちるときに、誰も理由を知らんまま落ちるより、理由が分かって落ちたほうが、まだましだ。わしはそう思うことにした」
「……思うことにした、と」
「そう思わんと、あんたを殺したくなるからな」
彼は、また石を積みはじめた。
俺は、その背中に、何を言うこともできなかった。
*
俺は、8年前の楽屋を思い出していた。
満は、あの夜、笑って受けた。客席は割れた。俺は花を持たせたつもりだった。彼は三か月後に死んだ。医者は、もともと保たなかったと言った。それも、たぶん正しかった。
同じ形だ。
寸分違わず、同じ形をしている。
俺は、8年間、「見えても、言わない」を自分に課してきた。課しておいて、この村で解いた。解いた理由は、詐欺が止まらないからだ、他に方法がないからだ、代わりのものを置いていくからだ。理由は、あのときも、いくらでもあった。
俺は、8年間、一つも学んでいなかった。
俺が学ばなかったのは、「言うか、言わないか」の答えだ。俺はずっと、そこに答えがあると思って探していた。だから、言わない側で8年過ごし、この村で言う側に戻り、また同じ場所に落ちた。
真実を告げることと、それを誰に、どう告げるかは、まったく別の技術だ。
俺は、前者しか持っていなかった。
後者を、俺は一度も習わなかった。習おうとしたことすらなかった。見えることが才能だと思っていたから、見えたあとに何をするかは、才能のない人間が悩むことだと思っていた。
*
あの静寂は、村が差し出してくれたものだった。
五十人が、自分から音を捨てた。乳飲み子の口まで塞いで、俺一人に、この村で唯一の声を渡してくれた。
俺は、それを、報告に使った。
三段構えの、よく出来た報告だった。あの静寂があれば、俺は、もっと違うことができたはずだった。何ができたのかは、まだ分からない。分からないが、あの十分間は、俺が生涯で最も自由に使える十分間だった。
俺は、それを、使い損なった。
*
村を出たのは、ドレクを埋めた翌日だった。
シエラは、坂を下りるあいだ、何も言わなかった。慰めもしなかったし、責めもしなかった。
麓に着いて、街道の脇に腰を下ろしたとき、彼女はようやく口を開いた。
「私、止めなかった」
「あんたのせいじゃない」
「うん。私のせいじゃない」
彼女は、あっさりそう言った。
「でも、私、あの晩、あなたが留め金を締めてって言ったとき、いつもより速く締めた。早く見たかったんだと思う。あなたのあれ、面白いから」
彼女は、膝を抱えた。
「私も、客だった」
俺たちは、そのまま、日が傾くまで、そこに座っていた。
彼女は、慰めなかった。
隣に、座り続けた。
俺は、それを、この時点ではまだ、慰めより軽いものだと思っていた。




