#19 証明
その村へ登る道は、荷馬車が通れなかった。
山の斜面に石を積んだだけの段々の道で、幅は人が二人並べば肩が触れる。シエラは俺を背負い袋に入れ、頭だけ出させて登った。三刻かかった。村が見えたとき、彼女の膝は笑っていた。
家は三十戸ほど。畑は痩せていて、麦より石のほうが多い。
その村に、宿が二軒あった。
三十戸の村に宿が二軒あるというのは、それだけで一つの事実だ。土産物を並べた台も三つ出ていた。売っているのは、素焼きの小さな瓶だった。泉の水を詰めて持ち帰るための瓶だ。
泉は、村の東の、岩が張り出した窪地にあった。
水は澄んでいた。底の石が一つずつ数えられるほど澄んでいて、その石は、この地方では見ない、緑がかった灰色をしていた。
窪地の縁に、板を渡した簡単な棚があり、木の椀が伏せて並べてある。順に手に取り、水を汲み、飲み、次の人のために洗って戻す。誰が決めたわけでもない順序が、そこにはあった。
「病が和らぐ、って話だったよね」とシエラが言った。
「和らいでる」と俺は言った。「これは、本当だ」
俺は、水を飲む人間の顔を見ていた。芸人は、客の顔を見て生きている。あそこにいるのは、信じたい顔ではなかった。楽になった顔だった。あの二つは、まったく違う筋肉を使う。
*
三日かけて、俺は仕掛けを組み上げた。仕掛けを作ったのではない。この泉が組み上げている仕掛けを、俺の頭の中で組み直した。
一つ目。水の味だ。
俺はもう味を感じないが、シエラに飲ませて聞いた。「わずかに苦い。舌の奥に残る」。彼女に頼んで、水を鉄鍋で煮詰めてもらった。底に、うっすらと白い粉が残った。
その粉を、炭火に落とす。
炎が、色を変えた。
黄でも赤でもない。緑がかった、白に近い色。ほんの一呼吸のあいだ、炭の上でその色が立ち上がって、消えた。
二つ目。窪地の岩だ。
俺はシエラに、泉の上の張り出した岩を削らせた。緑がかった灰色の、あの石だ。粉にして、同じように炭火に落とす。
同じ色が、立った。
水は、岩から来ている。それだけの話だった。
三つ目。これが決め手だった。
泉の上流、二十歩ほど登ったところに、細い流れがある。その縁に、柳が三本生えていた。根が、半分ほど水に浸かっていた。
俺は、柳の皮を剥がして煎じさせた。
痛みを鎮める煎じ薬は、俺の世界にもあった。柳の皮は、そのもとになる。この世界にも、たぶん同じものがある。ただ、誰も泉と結びつけていないだけだ。
つまり、この泉の水は、緑の岩の成分で微かに光る性質を持ち、上流の柳から溶け出したもので痛みを鎮める。
奇跡ではない。地形だった。
*
長老が俺の前に立ったのは、四日目の朝だった。
七十を越えているだろう。背は俺の胸ほどしかないが、立ち方が動かない。喋る人形を前にしても、一歩も下がらなかった。それだけで、この人が村で何をしてきたかが分かった。
「あんた、岩を削ったな」
「削りました」
「柳の皮も剥いだ」
「剥ぎました」
長老は、しばらく俺を見ていた。それから、こう言った。
「この泉が本物かどうかは、あんたの持ち物じゃない」
俺は、その言葉に、即座に答えを返した。
いま思えば、そこが分かれ目だった。俺は、考えなかった。考える必要がないと思うほど、答えが用意されていた。
「その通りです」と俺は言った。「だから、お返しします」
長老の眉が、動いた。
「この泉が何であるかを知っているのは、いま、俺だけです。俺だけが知っている状態のほうが、よほど、俺の持ち物でしょう。皆さんに返します。そのうえで、どうするかは、皆さんが決めればいい」
きれいな理屈だった。
いま書き写しても、まだきれいだ。反論しにくい。俺は反論しにくい形を作るのが商売だった。舞台で客の逃げ道を塞ぐのと、同じ手つきでそれをやった。
長老は、反論しなかった。
ただ、こう言った。
「あんたは、返すって言うが」
「はい」
「返したあと、ここにいてくれるのかね」
俺は、答えられなかった。
答えられなかったことを、俺は「答えなくていい問い」だと処理した。
*
その夕方、シエラが俺の背中の留め金を締めながら、一度だけ聞いた。
「この人たち、聞きたいって言った?」
「長老は止めた」と俺は言った。「だが長老は、村じゃない」
彼女の指が、留め金の上で止まった。それから、締めた。
「目盛り、23まで落ちるよ」
「ああ」
「うん」
彼女は、それ以上言わなかった。彼女が止めなかったことを、俺は同意だと受け取った。そう受け取ることにした、というのが正しい。
*
日が沈んでから、俺は広場に立った。
集まったのは、村の人間がほとんど全部と、宿に泊まっていた巡礼が十数人。合わせて五十人ほど。焚き火が二つ。
俺は、喋れない。
囁きより少し大きい程度の声しか出ない。広場でそれをやろうとすれば、風と、人の衣擦れと、遠くの犬の声に、全部食われる。
だから俺は、最初に、ただ立った。
木の人形が、焚き火の前に一人で立っている。それだけで、前列が黙った。前列が黙ると、二列目が黙った。三列目が、前を見ようとして首を伸ばし、そして黙った。
音が、後ろへ引いていった。
最後に、いちばん後ろで抱かれていた乳飲み子が、母親の手で口元を覆われた。
村が、完全に静まった。
——聞こえるようにしてくれたのだ。
五十人が、俺一人のために、自分から音を捨てた。俺は、この静寂を、生涯で二度と手に入らない種類のものとして受け取った。実際、それは正しかった。
そして俺は、それを使った。
「皆さま」
囁きが、届いた。
「三日かけて、この泉を調べました。今から、そのご報告をします」
俺は、炭火の鉢を前に出させた。
「まず、水です」
煮詰めて残った白い粉を、木の匙で掬い、炭に落とす。
炎が、緑がかった白に変わった。
村が、息を呑む音がした。それは、この夜、最も奇跡に近い音だった。
「次に、この石です」
窪地の上の岩を削った粉を、同じように落とす。
同じ色が、立った。
「この泉の水は、この石から来ています。石が水に溶け、水が光る。皆さまが夜の泉で見ておられた青白い光は、この石の光です」
ざわめきが起きかけて、自分たちで抑えた。彼らは、まだ、俺のために静かにしていてくれた。
「そして、痛みです」
俺は、そこで、一人の男を前に呼んだ。
ドレクという名の、四十いくつの男だった。腹の中に病があった。医者が匙を投げてから、半年、この泉の水で保っている。毎朝、娘が椀を運ぶ。九つになる娘だ。俺は三日のあいだに、その光景を四度見ていた。
彼は、痩せた体を、隣の男に支えられて出てきた。
「ドレクさん。今朝は、泉の水を飲まれましたか」
「いや」と彼は言った。「昨日から、この人形さんに言われて、飲んどらん」
「痛みますか」
「……ああ」
「これを、飲んでみてください」
俺は、柳の皮の煎じ薬を差し出した。濁った、茶色い液だった。
彼は、飲んだ。
俺は待った。村も待った。焚き火の薪が、二度、爆ぜた。
やがて、ドレクの肩が下りた。
呼吸が、深くなった。それまで浅く速く吸っていた息が、腹まで入るようになった。彼は自分の腹に手を当て、それから、驚いたように顔を上げた。
「……引いた」
「泉の上に、柳が三本あります」と俺は言った。「その根が、水に浸かっています。皆さまが飲んでおられたのは、その柳です。泉でなくても、この皮を煎じれば、同じだけ効きます」
俺は、それを、完全な形で言い切った。
「この泉に、力はありません。あるのは、石と、柳です。それは、この村の誰にでも、明日から作れます」
——ここが、俺の最高到達点だった。
仕掛けとして、非の打ちどころがない。三段構えで、光と痛みの両方を再現し、しかも最後は、村の人間が自分で再現できる形で手渡した。俺は暴いただけではない。代わりのものまで置いていった。
俺は、そう思っていた。
静寂は、まだ続いていた。
俺は、それを、理解の静寂だと読んだ。長い舞台の後の、いい客席の静けさだと。
*
村の反応は、穏やかだった。
怒鳴る者はいなかった。長老は、最後まで広場の端に立っていた。何も言わなかった。何人かが俺のところへ来て、柳の皮の煎じ方をもう一度聞いた。俺は丁寧に教えた。分量も、煮る時間も。教えている自分を、俺は、ずいぶん誠実な人間だと思っていた。
ドレクは、隣の男に支えられて帰っていった。
去り際、九つの娘が、俺の前で立ち止まった。
娘は、俺を見上げて、何か言おうとした。口を開いて、閉じて、また開いた。
結局、何も言わずに、父親を追っていった。
俺は、その子が何を言おうとしたのか、考えなかった。
その夜、シエラが残量計を出した。
針は、23を指していた。予告どおりだった。
「予定どおりだね」と彼女は言った。
「ああ」
俺は、悪くない気分だった。
三日で組み上げ、五十人の前で完全に再現し、代替まで置いた。あの静寂は、俺が今まで浴びたどの喝采よりも、値打ちのあるものだった。
俺は、その夜、器の中で、久しぶりに満足していた。
——五日後に、ドレクが死ぬ。
そのことを、この夜の俺は、まだ知らない。




